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コラム
焚き火哲学*01
『哲学とは①タウマゼイン』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

まえがき

いきなりカタい前口上で始まりましたが、こちらの連載では「哲学」していこうと思います。「哲学」……苦手だな〜って、退いちゃう人はいませんか? 安心してください、履いてますよ……じゃなくて、簡単ですよ!!

というか、簡単にしましたよ。長年かけて。こちらでは仮に「Sgt.キャンプ」と名乗らせて頂きますが、筆者も長年苦労はしてきたんです。難しくて、難しくて……。判らなくて、判らなくて……。

焚き火をしながら。本を紐解き。本を紐解きながら、焚き火をして……。最近ようやく判りかけてきました。哲学とは何なのか。何についての学問なのか。その歴史と全体像について。掴めてきたような気がしています。

そして、今なら皆さんにお伝えできるような「予感」もします。この悪い頭でも理解できたのだから、誰にでも理解できるし、誰でも身に付けられる。誰でも楽しめるし、誰にとっても面白い!!

「予感」だったものが「確信」へと変わり、筆を取るに至りました。「哲学」……興味はあったけど敷居高いな〜と思っていた人も、お説教臭そうで毛嫌いしてきた人も、お付き合いいただければありがたいです。




「哲学」とは

さて、初回となる今回は「哲学」とはいったい何なのかをご説明する入り口にしたいと思います。そのためにはまず「なぜ哲学が判りにくいのか」、読者の皆さんの共感を頂くのが得策かと思われます。判りにくい原因を突き止めれば、逆に哲学を理解するきっかけが掴めるかもしれません。

その原因は主に3つ。①「哲学」という言葉が意味する定義の幅が広すぎるのと、②特殊で難解なワードと、それを考案した人物の名前が多すぎるのと、③そもそも何についての学問なのかが判らないから……といったところになると思います。いかがでしょう?

具体的に①についての共感を頂くために、「哲学」っぽい言葉を下に列記してみましょう。

「旅をしてまわっても、自分から逃げることはできない」 —- ヘミングウェイ

「リスクのないところには、利益も成長もない」 —- ビル・ゲイツ

「我思うゆえに我あり」 —- デカルト

「神は死んだ」 —- ニーチェ

どれも「哲学」っぽく聞こえますが、厳格な大学の先生によっては、上2つは「哲学」から排除されてしまうかもしれません。ヘミングウェイは作家、ビル・ゲイツは経営者ですから。それぞれ「人生哲学」や「経営哲学」などと呼ばれるものであって、学問ではないと。

そのほかにも「勉強哲学」や「恋愛哲学」、はたまた「野球哲学」などなど……「哲学」の種類は多岐に渡ります。「あの人には哲学がある」「人生には哲学がなきゃダメだ」などと言われる場合の「哲学」は普通、大学では扱われません。




哲学は判らない

いっぽう下の2つ。「デカルト」と「ニーチェ」……この2人は紛れもなく哲学者に分類されます。しかもかなり高名な学者さんです。皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあるでしょう。そしてどちらの言葉も共通して……言っていることが判らない!!

「我思うゆえに我あり」「神は死んだ」……特に難しい表現を使っている訳ではありませんが、何を言っているかピンと来ない。「だから何?」って感じで、人生の指針にもならなそうだし、生活の役に立つとも思えません。

同じデカルトでも「不決断こそ最大の害悪」とか、同じニーチェでも「立っている場所を掘り下げよ。泉はその足元にある」などと、もっと判りやすい言葉も残されてはいるのです。ところが、こちらは彼らの「人生哲学」にすぎません。学問としての哲学界では重要視されないのです。

ね、これですよ、これ。これだから哲学は何が何だか判らなくなるのです。判りやすく、示唆に富んだ言葉は哲学ではなく、何を言ってるのかも判らず、役にも立たなそうな言葉が「哲学」であると……。ご共感、頂けましたでしょうか?




哲学を判りやすく!

しかし、それを判りやすくしていこう! というのが本稿の目的です! 定義や言葉なんてともかくにして、感覚的にフィーリングで判っちゃう。そんな連載を目指しています。読み進めて頂ければ必ず「我思う」も「神は死んだ」も判ってくるはずです。

そのフィーリングはちょうど、我々が焚き火に向かい夜空を見上げる時に感じるのと似た感覚。火が燃える不思議、何万光年も離れた星から光が届く不思議。忙しい日常から解き放たれてこそ、あらためて感じることのできるセンス・オブ・ワンダー。

キャンプは日常の所作を際立たせ、ひとつひとつの行為に意味と輪郭を与えてくれます。「あたりまえのこと」としてルーティーンに落とし込んでいた行為が、自然の中では原始的な営みとなって蘇ります。

ギリシャの三哲の一人に挙げられるプラトンは、「タウマゼイン(驚異)というパトス (感動) は愛知すなわち哲学の唯一の始りである」と語りました。あたりまえの日常に感じるセンス・オブ・ワンダー。これこそが哲学のエッセンスなのです。




タウマゼイン(thaumazein)

あたりまえのことに「驚いて感動する」……これってキャンプに通じるところが大きいと思いませんか? プラトンの(あまり従順ではない)弟子のアリストテレスは、次のように書き残しています。

けだし、驚異することによって人間は、今日でもそうであるがあの最初の場合にもあのように、知恵を愛求し始めたのである。ただしその始めには、ごく身近の不思議な事柄に驚異の念を抱き、それからしだいに少しずつ進んで遥かに大きな事象についても疑念を抱くようになったのである。たとえば、月の受ける諸相だの太陽や星の諸態だのについて、あるいはまた全宇宙の生成について。

― アリストテレス『形而上学』/ 出隆訳

勢い余って連載初回から、もう紙面が尽きようとしています。冒頭で3つ挙げたうちの「①「哲学」という言葉が意味する定義の幅が広すぎる」……についてしか、触れることができませんでした。残りは次回に続けます。

ただ結論から言わせて貰えば、わざわざ定義する必要もないのです。肝心なのはタウマゼインする心。焚き火をしながら考える由無し事も立派な哲学だし、この駄文も一応は哲学。「哲学」とは、もっと自由で、開かれたものであるべきなのです。














Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。