独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
熱いパトスで!
焚き火を眺めながら、あれこれ考えるように、哲学しちゃおう! ……という軽〜いノリで始まったコラム連載。今回で2回目となりますが、まずは「哲学とは何か?」という、このシンプルでありながらも答えにくい難題に取りかかるところから始まりました。
前回は哲学が分かりにくくなるその原因を、すぐ「人生哲学」「経営哲学」「野球哲学」などとジャンル分けして、「西洋哲学」を特別扱いしようとするその姿勢にあるのではないかと推察しました。
そんな識別によって学問の間口を狭くしてしまうより、原点に立ち戻って「タウマゼイン(驚異)」から始めよう! 焚き火をしながらあれこれ考えるように、もっと自由に気軽に哲学を語ろう! というのが趣旨でした。
プラトンいわく「タウマゼイン(驚異)というパトス (感動) は愛知すなわち哲学の唯一の始りである」ということですから、本来哲学とは驚いたり、感動したりする心の動き、ほとばしる熱いパトスで持って取り組むべきものなのです。面白くて、楽しくて、学ぶ喜びを与えてくれるものであるはずなのです。
相反する想い
ところが一般的に「哲学」は、ただ小難しいだけで、理屈っぽく、何の役にも立たない「虚学」であると見なされてしまう傾向にあります。特に日本では「嫌われている」とさえ言っても良いかもしれません。学べば就職に不利になる。語れば人に嫌われる。極めれば人生に悲観して自死に至る……などなど。
しかし一方で「哲学」は憧れの存在だったりもするんですよね。知っていれば格好良さそうだし、人にマウント取れそうだし、ドヤれそうだし……。そんなよこしまな思いも手伝ってか(僕自身の場合はそれに中二病をこじらせてたりするのですが)、哲学に挑もうとする人は後をたちません。
動機としては良くはないのかも知れませんが、そんなキッカケでも十分だと思います。とにかく哲学を知りたいという人が少なからずいて、世には哲学の「入門書」なるものも数多く出版されています。僕自身もこれまでずいぶんと頼りました。……と言うか頼ろうとしました。
哲学用語の難しさ
ところが読めないんですよね。もう何よりも用語が難しくて。哲学用語というのは「存在」とか「経験」とか「理性」など、日常で使っても意味の判りそうなものもあるのですが、「悟性」とか「止揚」とか「差延」など、読み方も判らない漢字もあったりして。はたまた「アプリオリ」「ピュシス」「ノエマ」など、初めて見るようなカタカナまで多岐に渡ります。
そんな難解なワードを頭に定着させるだけでもひと苦労なのですが、その意味や定義がまた定まらない。僕たち一般人が把握している意味と違ったり、辞書に載っている定義と違ったりして……。そしてさらに厄介なことに、時代や哲学者によっても変遷し、同じ「エピステーメー」という言葉が、アリストテレスとフーコーとでは異なる意味を持っていたりもするのです。
こうなるともう手には負えませんよね。この手に負えない加減は、ウィトゲンシュタインという哲学者自身からも批判されていたりします。さらにソーカルという数理学者からは、徹底的に糾弾されもしました。専門家ですらこうなのですから、もう僕たち素人はお手上げ。何が正しくて、何が間違っているのか、判別すらできません。
おかげで哲学者自身もワードの誤用を避けるために慎重にならざるを得ませんし、刊行されている「入門書」もそれに倣って平易な言葉では書けないのでしょう。結果、大学で正規の勉強を(あるいは大学院まで)受けないと、語ることすらできないような学問に成り上がってしまうのです。
難しさを逆手に取る
でも面白いのはここからで、そんなタブーを回避するために、独自のワードを次々と創り出していった哲学者さんもいらっしゃいます。ドイツのハイデガーという人は自分独自の概念を表わすために「現存在」「世界内存在」「被投性」「世人」など、数々の造語を創り出しました。おかげで、数ある哲学書の中でも最難関の部類に入れられることが多いようですが。
こんな珍事は他の学問ではまず起こりません。化学の分野で同じ元素記号が異なる物質を指すなんてことはあり得ませんし、数学の分野で新たな定理を編み出すには、膨大な時間と研究とを要します。
これって哲学が、かなり自由度が高く、ワードの異なった(間違った?)運用も多発している学問だという証でしょう。誰が参入して、誰が考えて、誰が発案しても良いのです。
形而上学
さて、ここまで来てようやく本題に入る下地が整いました。「哲学とは何か?」……そもそも「哲学」という学問の定義も、辞書によって微細に異なり、哲学者によっては大きく異なります。異なるどころか、真っ向から対立することもしばしば。哲学は「真理を探究する営み」だとされる一方で、「真理など存在しない!」と否定されたりもします。
エピクロスにとっての哲学と、キルケゴールにとっての哲学はまったく別の物であろうし、ドゥルーズ&ガタリは「哲学とは何か」と題して本を一冊書き上げているくらいです。諸説紛々、語り尽くせないし、答も出ない問題なのです。
ただ本稿の目的は、できるだけ簡単に、自由に、楽しく「哲学」を説明し、考えることにありますから、精緻を求めて迷宮に入り込むよりも、無責任に簡明な答を出す道を選びます。「哲学とは何か?」……ひと言で言い切りましょう。