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コラム
焚き火哲学*03
『哲学とは③コギト論』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

ここまでは序章?

哲学をできるだけ簡単にして、たくさんの人に親しんで頂こう……という想いで書いてます。いかがでしょう? 難しくないですか? 読みにくかったりしませんか? 使っている言葉はそれほど難しくないはずですが、ここまでの連載でもう難点が出ていますね。それは展開がわかりにくいという点です。

初回で「タウマゼイン(驚異)」という言葉を紹介し、第2回で「形而上学」という言葉を紹介しました。しかしただ紹介するだけで、その2つが何なのか、まったく説明できていません。なのに今回のタイトルでは「コギト論」と、新たなる意味不明ワードが登場しています。

でも大丈夫。この回をお読みいただければ、その3つのワードがつながり、哲学の扉が開かれることになっています。言うなればここまでは、その扉を開くための序章。もちろん連載前から予定していた構成ではあるのですが、ここを抜ければ、ようやく本題に入ることができるようになります。




「タウマゼイン」とは?

「哲学とは何か?」……その「唯一の始まり」とされるのが「タウマゼイン(驚異)」であると宣言しました。しかしその詳細はご説明していませんでしたね。その驚異を厳密に言えば、何にでも驚きさえすれば良いという訳ではありません。「あたりまえのことに感じる」驚きだとされています。それを言及したプラトン本人に。

ですから、お化けやUFOを見て驚くようなものではないのです。単にビックリ箱で驚くような心の動きではありません。タウマゼイン(驚異)の実例としてよく取り上げられるのは、焚き火をしながら星空を見上げ、「宇宙って何だろう」「世界ってどのように出来たんだろう」と考えてしまう、我々キャンパーなら誰もが経験したことのあるような疑問です。

プラトンの弟子、アリストテレスによれば、「月の受ける諸相だの太陽や星の諸態だのについて、あるいはまた全宇宙の生成について(『形而上学』982b 出隆訳)」と記述されています。でも単にそれだけを説明されても、何も驚きませんし、何のパトス(感情)も湧き起こりませんよね。では次に、そのアリストテレスが提唱した「形而上学」についてお話しましょう。




「形而上学」とは?

「哲学とは何か?」……それを「形而上学」であると結論づけるのは、いささか乱暴ではありますが、アリストテレスは「物理学」「化学」「生物学」などの一般的な科学を「第二哲学」と分類し、第一の哲学の方に形而上学を配置しました。形而上学の方が「第一」ということは、つまりこちらがメインとなるんですね。

じゃあ「形而下」とか「形而上」って何? っていう話になりますが、図で説明した方が早いでしょう。一番簡単に説明すると、手に持っている左側のリンゴは形而下にあり、右側の脳内にあるリンゴは形而上にあることになります。リンゴの色や形を視覚が捉え、かすかな甘い匂いを嗅覚が察知し、手に持つ冷たさと固さを触覚が伝え、脳内(形而上)にリンゴを再現しているのです

要するに「現実」が「下」で、脳内での「認識」が「上」ってことです。「形而下」は英語で言うと単なる「physics(物理)」になって、文字通り物理的な現実の世界。「形而上」は「metaphysics」となって、その「meta-(高次の〜)」な世界を意味します。




「コギト」とは?

すると「第一」であり、「プレミア」であり、「上」である形而上の世界の方が大切になるんですね。僕たちが脳内で「認識」している世界の方が、僕たちの外にある「現実」に先んじることになります。こう言われると、これまで疑問にも思わず、あたりまえだとしか思っていなかった常識が覆されませんか? 大げさに言えば「現実」よりも「想像」の方が優先されるってことですから。

でも考えてみると確かにそうなんです。僕たちは生まれてこのかた、脳内で認識した世界しか知り様はなかったのです。視覚にしても、聴覚にしても、触覚にしても……神経が伝えて脳内に再構築された世界しか知らない。これまで見てきた街も、人も、今まさに目の前で燃えさかる焚き火の炎も、その暖かさまでをも含めて、すべては僕たち脳の中にあるのです。

「何をあたりまえのことを……」と言われそうですが、そうです。あたりまえなんです。そのあたりまえの事に驚きを感じるのが「タウマゼイン」なのです。世界は我々の脳の中にある。これだけでは驚きが足りないというのなら、さらに付け加えてみましょう。世界は我々の脳の中「だけ」にある。逆を言えば、脳の外に世界があるかどうかは判らない。保証はできない。いや、もしかするとないのかもしれない。はっきり言いましょう。断言しましょう。世界などない! あるのは「コギト」だけなのだ!! ……と。




世界は存在しない

「タウマゼイン」と「形而上学」。この2点を基準にして、哲学界全体を三角測量するために、時を勢い余って2,000年ほど進めてしまいました。「近代哲学の父」と称されるデカルトです。「我思う故に我あり」──これまた謎の言葉になりますが、いわゆる「コギト」論です。

ラテン語でいうと「コギト・エルゴ・スム(cogito, ergo sum)」──「我思う」とは「コギト」の訳語です。「我思う故に我あり」を言い換えれば、「私が認識している以上、その認識だけは確かに存在している」ということになります。要は脳の中の世界だけは確かに存在している。けれど、それは錯覚かもしれない。悪しき神が見せている幻覚かもしれない。本当は世界は存在していないのかもしれない。

う〜ん。ちょっと難しくなってきたかな? 理屈っぽいですよね。でも少なくとも僕たちが知っている世界は、物心がつき始めた頃から神経が感じてきた信号のみであり、その情報源は確かではありません。もしその入力元が映画『マトリックス』のような悪しきコンピューターだったとしたら……現代でも「シミュレーション仮説」として立派に通用している考え方です。

そんなバカな、SFじみた、子どもっぽい幼稚な考えだ! ……と思うのが普通の大人の反応だと思います。しかし、西洋哲学史上では何度も登場するアポリア(答の出ない謎)の定番となっています。現代哲学の若手ホープとされるマルクス・ガブリエルも、『なぜ世界は存在しないのか』と題した書物を上梓しています。たった5年ほど前に。

それだけではありません。ウパニシャッドの「梵我一如」や仏教の「色即是空」などもほぼ同じ。時を超えて場所を変えて、古今東西の哲人たちは口を揃えて「世界は存在しない」と説いているのです。極めて真面目に……どころか生涯と学者生命をかけて……。ね、UFOやお化けよりも、その事実の方によっぽどびっくりしませんか?

これを「面白い!」と感じたあなたは、もう哲学の世界に片足を一歩、踏み入れています。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。