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コラム
焚き火哲学*04
『哲学とは④スケプティシズム』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

世界は存在しない

「世界は存在しない」──こんな荒唐無稽な結論で前回は終わりました。焚き火で、燃えさかる炎を眺めながら、この火は存在しないのかもしれない、そして眺めている自分も存在しないのかもしれない、すべては存在しないのかもしれない……。こんな、尽きなく堂々巡りしてしまう疑念を持つことが哲学への入り口であると。

別にわざわざ焚き火を燃やして、ソロキャンプで自分と向き合ったりなどしなくても、子どもの頃から幾度かは抱いたことのある疑念かもしれません。逆に大人になってからは、こんなことを考えたりはしません。普通は。しかしこの荒唐無稽な命題は、西洋の哲学史上においても、東洋の哲学史上においても、繰り返し問われ続けてきたのです。時を超えて。場所を変えて。

僕たち日本人にとって一番有名なのは「色即是空」(龍樹)でしょう。「色は即ちこれ空、空は即ちこれ色」──解釈もいろいろあるのですが、「見えているものは実体がなく、実体がないものが見えているのだ」と。これも一種の「世界は存在しない」論です。

西洋哲学はこの命題をどこまでも論理的に語っていくのですが、東洋哲学では「論理、理屈で理解しているだけではダメだ。頭で判っているだけでは足らん。悟りを開いて本心から『世界は存在しない』と実感するのじゃ」と道を示します。

本稿は文字で伝えるしかないので、どちらかというと西洋寄りかな? 別に座禅を組んで、悟りの会を開いても良いんですけどね。筆者の僕自身がぜんぜん、まったく悟りを開いていませんから無理ですね。今後も文字情報、理屈だけでお伝えしてまいります。




スケプティシズム

けど改めて考えてみると、こんなんだから哲学って嫌われるのでしょう。「現実的じゃない」「何言ってるか判らない」「役に立たない」などと忌避されてしまうのでしょう。この連載、この文章自体も読む気が起こらない人の方が多いんじゃないかな?

でも待ってください。歴代の哲学者、偉人どころか仙人とも呼べる哲人たちが、口を揃えて訴えているのです。「世界は存在しない」と。それを踏まえると、ちょっと無視できない主張です。偶然の一致だとしても、なぜこんなにも皆、同じ結論に至ってしまうのでしょう。どういう思考を経由してこのような境地に辿り着いたのでしょう。

もちろんそれぞれの哲人には、それぞれのバックグラウンドがあり、それぞれの人生がありますから、一概には言えません。しかし皆に共通して言えるのは、「真理」を追求しようとする情熱があったということです。今ではもう「真理などない」とほぼほぼ結論が出ていたりする思想界ですが、古の哲人たちは「真理」を探求して思索したり、修行の道に入ったりしたのです。

そしてその際に有効とされた手段が「疑う」ということ。方法的懐疑、懐疑主義、スケプティシズム。昨今の新興宗教や陰謀論、スピリチュアリズムが「信じる」という姿勢で逆に「真実」から遠のいてしまうのとは正反対。常識、あたりまえのことを「疑う」ことで「真理」に近付こうとしたのです。

あらゆるものに「疑い」の目を向けて、疑わしい物を一つずつ排除していけば、最後に残るのが「真実」だろう。もう疑っても疑いきれないものが残ればそれが「真理」だろう。方法的懐疑。このスケプティシズムの精神は、哲学界だけでなく科学界でも重要視されています。偶然辿り着いた実験結果を鵜呑みにしてはダメだ。何度も反証実験を重ね、自分が出した結論を疑いに疑って「事実」をつかめ!──いや、科学だけではありません。あらゆる学問に共通して要求される学術精神。それがスケプティシズムです。




カントのアンチノミー

哲学界でこのスケプティシズムを最高に極めた人は、おそらく18世紀、イギリス経験主義の哲学者ヒュームだったと思います。あまりにも懐疑主義的であると、後世になってまで批判され続けた人物です。おまけに当人自身も、自らを「懐疑主義的」だと自認していたほどですから、間違い無いでしょう。見習いたい姿勢です。

そしてその懐疑論を引き継いで自説を展開したのが、かの有名なカント。哲学を知らない人でも名前くらいは聞いたことがあると思います。いろいろな功績を残したとされていますが、それについては本稿の論旨と関係ないので割愛。とにかく分類して整理するのが好きだった人で、常識を懐疑することで生まれる対立構造を、4つのアンチノミーとしてまとめました。ものすごく簡略化して以下に列記します。

4つのアンチノミー(二律背反)
① 定立 : 宇宙には始まりがあって、果てもある。
 反定立 : 時空は無限で、始まりも果てもない。
② 定立 : 世界は分子、原子に還元できる。
 反定立 : 還元できない。
③ 定立 : 自由意志はある。
 反定立 :自由意志はない。
④ 定立 : 神さまはいる。
 反定立 : 神さまはいない。

定立(テーゼ)とされているのが18世紀当時のあたりまえ、常識だとされていた考え方でしょう。反定立(アンチテーゼ)に掲げられている方がスケプティックな疑念になります。今の日本で考えると、④の神さまなどは、常識の方が「いない」で、「いる」とした方が非常識になっちゃったりするような気もしますが、とにかくこんな風にあたりまえを疑い、どちらが正しいのかを論じていくのが哲学の精神なのです。




楽しく疑おう!

カントはこの先も自論を推し進め、やがて哲学界の「コペルニクス的転回」と称される功績を収めるのですが、今回はそちらも割愛して、ここらでお話を終わりにしたいと思います。でも、どうですか? 楽しく読んでいただいているでしょうか? 面白く思って貰えてるでしょうか?

毎回言っているコトですが、このコラムを書く動機はあくまでも哲学をわかりやすく伝えたい。哲学に興味を持ってもらいたい。哲学を楽しんでもらいたい。──という言葉に尽きます。哲学の不遇をどうにかしたい想いにあるので、気になってしまうのです。

ヒュームやカントにしても、語り始めればキリがないのですが、今回つかんでいただきたい大雑把な哲学観は「ギリシャの昔から現代にいたるまで、あたりまえで自明なことをわざわざ疑い、大まじめに議論してきたのが哲学だ」ということ。そしてその「疑う姿勢、スケプティシズムこそ哲学者の精神だ」という2つです。

ちなみに気になる人のために……。カントは③④については「いくら議論しても決着がつかない」問題だと放棄し、①②については「そもそも世界(物自体)がない」と言って棄却しました。宇宙や原子とか言ったって、世界自体がそもそもないんだから……って。色即是空、空即是色。すべてこの世は夢まぼろしよ。














Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。