独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
時を超える構図
「プラトンvsアリストテレス」と「ノイマン式vsディープラーニング式コンピューター」──この2つの対立構造が同じである。言い換えれば、最新のコンピューターテクノロジーの基礎となる考え方を、2,000以上年前の哲学者2人が発案していた。この衝撃の事実を前回はお伝えしました。
哲学の全貌を分かりやすくお伝えするために、古い話と最新の話の両極端を取り上げました。ギリシャ哲学とコンピューター。2,000年以上の長きに渡って人類は、同じ考えを繰り返し、同じ構造を再構築し続けてきたのです。
せっかく描いたので同じ絵を何度でも登場させますが、天を仰ぐプラトンと、地に手を伏せるアリストテレス。この両者の手の間を往来してきたのです。
今回はあらためましてそのプラトン(オレンジの人)とアリストテレス(青い人)、2人の主張を振り返ってみようと思います。そもそも「哲学」 ≒「 形而上学」であり、「形而上学」 ≒「認識論」である──というところからこの稿を起こしました。要は「哲学」も「形而上学」も「認識論」であるということですが、2人の間の大きな違いは、世界を上から認識するか、下から認識するかというところにあります。
また表現を変えてプラトンは「外から」、アリストテレスは「内から」認識していると言われることもあります。ノイマン型コンピューターの演繹法と、ディープラーニング型コンピューターの帰納法と言っても良いでしょう。哲学用語で言えば、プラトンの方は有名な「イデア論(外因説)」、アリストテレスの方はあまり有名じゃない「四原因説(内因説)」と呼ばれます。まずは「イデア論」の説明から始めていきましょう。
イデア論
いろんな説明の仕方があるのですが、これも以前用いた「リンゴ」の例でお話しましょう。プラトンの見方でリンゴを見る時、僕たちは上から、または外から、演繹的にリンゴを見ることになります。彼の提唱した「イデア論」を採択していることになります。
下の絵の通り、我々は手に持っているリンゴを「目で見て」➡︎「視神経がその情報を脳に伝え」➡︎「脳がリンゴの像を再構築」している──つまり「形而下(現実の世界)にあるリンゴ」を「形而上(脳内)に感じ取って」、それをリンゴだと認識しているということになりますね。
外のリンゴ像が脳内のリンゴ像に結ばれるところまでは分かりました。でも、そもそもその「認識」って何でしょう? どうしてその「リンゴ像」が「リンゴ」だと分かるのでしょう。
「リンゴ = リンゴ」だと認識する時、「A = A」のように同じものを等記号でつないでも意味ありません。「1 = 1」とか、「3 = 3」と言っても、あたりまえすぎて数式にする意味がありません。「左辺」と「右辺」には別のものが来なくてはなりません。哲学書ではこれを説明する時に「A = A’」なんてよくやるのですが、分かりにくくなるのでやめましょう。例に即して説明すれば「手のリンゴ = 脳内のリンゴ」となりますね。「左辺」と「右辺」には別のものが来ています。
でももう一声。我々がリンゴを認識する時には「辺」がもう一つ必要になります。前回のディープラーニング(深層化学習)で言えば、最後に「猫か猫じゃないか」を教えてくれる人、教師役の人間が必要になります。リンゴをリンゴだと教えてくれる「教師役」が必要となるのです。「手のリンゴ = 脳内のリンゴ = 教師役」の3辺に増えますね。
プラトンはその「教師役」を「イデア」と呼びました。イデア、ιδέα、idea、アイディア、考え、概念、観念、想念、理想──さまざまな言葉に置き換え、訳すことができますが、どれかひとつ選ぶとすれば「概念」が一番分かりやすいかな。僕たち現代人の語感でいうと「リンゴの概念」という教師役のおかげで、リンゴをリンゴだと認識できるってことですね。でもその教師役って何? 「リンゴの概念」ってどこから来たの?
外因説
プラトンの場合、それは神様。天上界から来たことになってます。ギリシャ時代の人ですからね。だから彼は天を指差しているのです。神話的な考え方がまだ生きていた時代です。そして普通の哲学書ではここからプシュケーとかレティアとか、神がかった話が続くのですが、本項ではそれを避けます。話が微に入り細に入り、分かりにくくなりますし、僕の説明したいことから遠ざかってしまうからです。とにかく彼は、僕たちがリンゴをリンゴと認識できるのは、神様にそのイデア(概念)を授かったからだと説きました。
これを僕たちの日常感覚に引き寄せれば、神様の代わりに「親にそう教わったから」とか「辞書でそう定義されているから」とか「図鑑や教科書に載っていたから」みたいな理由付けになるでしょう。
僕たちがリンゴをリンゴだと分かるのも、猫が猫だと分かるのも、親にそう教わったから。三角形の内角の和が180°だとか、大化の改新が645年だとか知っているのも、本にそう書いてあったから。極めて普通な感覚ですよね。なぜ分かるかと言えば、神に、親に、第三者にそう習ったから──となります。
演繹法
親や辞書、教科書から教わった定義──物の概念は外から与えられるんだとするので外因説。プラトン流にイデアから考え方を推し進めていくと、それは自ずと「演繹」の手法を採ることになります。「A=B」かつ「B=C」ならば「A=C」という例の三段論法。その大前提や小前提が神によって、親によって、辞書や教科書によって定義づけされているということです。
このような等記号は、僕も先ほど「リンゴ = リンゴ」とか「A = A’」などと使ったばかりです。そしてそんな等記号は「手のリンゴ = 脳内のリンゴ = リンゴの概念(イデア)」という風に何段にも下に降ろしていくことができます。これが僕たちが物を考えるときの思考法です。皆さんもそうしていますよね。誰だってそうします。
ところがこれに異を唱えたのがプラトンの弟子、アリストテレスだったのです。物の概念は外からもたらされるものではなく、内側から、物自体から発せられているんだっ──と反論してみせたのです。が、ここで紙面が尽きてしまいました。無計画な執筆のせいです。ごめんなさい。次回、アリストテレスの「四原因説(内因説)」の解説に続けます。