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コラム
焚き火哲学*09
『哲学とは⑨フロネシス』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

フロネシス

前回からの続きとなりますが、僕がアリストテレスを支持する理由は、「フロネシス」という概念によるものです。フロネシス──聞いたことありませんよね。あまり有名ではなく、取り上げられることも少ない概念ですが、とても重要視しています。

というのも、最新の脳科学やコンピューターサイエンス関連の読み物を漁っていると、しばしばこの概念との親和性に思い当たるからです。「コンピューターは心を持つのか」というような命題に出会った時です。

「フロネーシス」とか「プロネシス」と表記されることもあり、「プラクシス」という語に発展します。英語のpractice(実践)の元となるギリシャ語なので「実践知」と訳されることもあります。しかしその訳語のせいで勘違いされることも多い概念です。ずいぶんと単純化された説明を見受けることもあります。

より慎重に「賢慮」などとも訳されたりしますが、僕自身も「完全に理解している」とは言い難い、なかなか難しい概念になっています。以下、頑張って解説してみます。




フロネシスの定義

このワードが登場するのはアリストテレスの「ニコマコス倫理学」という難解な本。どのように難解なのかはその言葉使いに触れればお分かりになると思います。僕がウロ憶えで憶えているかぎりを、箇条書きで書き出してみますので、ご共感いただければと思います──。

「中庸でなければならない」「他のようでもありうるものである」「因果や利から解放されているものである」「自然とそうせずにはいられない徳である」「子どもより大人に身につく徳である」「反復により習得されていくものである」「フロネシスはフロネシスでなければ計れない」「カロン(美学)にもとづくものである。」──何だこりゃ? 訳わかりませんね。

こういう難しさが、哲学のとっつきにくさの元凶だと思うのですが、ギリシャ時代は特にひどいです。こんな風に書かれている原典を元に、ああだ、こうだと研究者たちは解釈していく訳です。次は僕なりの解釈を添えて説明してみましょう。




抽象的な説明

・中庸でなければならない
極端に行き過ぎてはいけません。例えばお金に関しては、ケチすぎてもいけないし、太っ腹すぎてもいけません。何事もほどほどが大切だってこと。

・他のようでもありうるものである
1+1=2のように定まった学知(エピステーメー)ではなく、人によって、状況によって、様々な答えになるってことかな。何が良いか、どんな行為が道徳的なのかはケースバイケースですからね。

・因果や利から解放されているものである
「正しいからやる」「人に喜ばれるからやる」というような道徳ではなく、何の利害関係も目的もなく、実践されるものである。もちろん「儲かるからやる」とか「褒められるからやる」などはもってのほかです。

・自然とそうせずにはいられない徳である
頭で考えてから行動するのではなく、気がついたらもう行動していた──というような善行でなければいけません。

・子どもより大人に身につく徳である
生まれながらに子どもが持っている純真無垢さのような徳ではなく、歳をとればとるほど深まる徳のようです。

・反復により習得されていくものである
理屈で身につくものではなく、何度も繰り返すことでだんだん身についていく徳なのだそうです。だから子どもではなく、歳を重ねた大人が持つようになるのですね。

・フロネシスはフロネシスでしか計れない
外部に尺度やルール、定義を持たないってことですね。ある人物がフロネシスを持っているかどうかは、フロネシスを持つ者にしか分からないと説明されています。持つ者同士ならお互いに「あ、持っているね!」と確認できるってことでしょう。

・カロン(美学)にもとづくものである。
損得や、善し悪しや、因果には囚われず、自らの美学に従って行動する──抽象的で掴みにくい定義ですが、これが一番重要な気がします。




具体的な説明

謎掛けのような定義に解釈を与えてみましたが、それでもまだ謎でしょう。ですから、この定義から僕が思い至る具体例で説明を追加したいと思います。昔の、恥ずかしい経験を開陳することになるのですが……。

若い頃、もう小学生、中学生、高校生時代とずーっと……僕は部屋が片付かないタチで、文字通り「足の踏み場もない」ってぐらいいつも物を散らかしていました。時おり思いついては片付けはするのですが、数週間も経たないうちに元の木阿弥。とにかくだらしなかったのです。

その片付けようとするきっかけも、褒められたものではありません。学校の中間や期末試験からの逃避行動だったのですから、長続きしません。すぐにまた足の踏み場もなくなるのは分かっているですが、懲りずに本棚に「こち亀」を1巻から整理していくような、ちんたらとして遅々と進まない、無駄な徒労を重ねていました。逃避行動ですから。

しかし大学に行くようになり、2年生になった途中頃、なぜか突然部屋が片付くようになったのです。これが今考えても不思議でなりません。試験の逃避行動のような徹底片付けもしないのに、気がついたら物の置くべき場所が決まり、使ったらそこに戻すような習慣が身についていたのです(ふつうの人にとってはあたりまえのことですが)。

自分の身の内に起きた、くだらないけどこの謎の現象が、前章で箇条書きにした抽象的な説明と、奇妙な一致を見せているように思えてならないのです。

何かの目的のために片付けてるわけでもなく、親に叱られたからでもない。何度も徹底片付け(逃避行動)を反復はしていたけど、身についた時には徹底して片付けまではしない。潔癖症になった訳ではなく、適度に片付け、適度に散らかっている中庸の状態。そして何より、そうせずにはいられないような気質が自分に備わったような感覚があるのです。




自由意志

これは、以前説明した人間の脳細胞内で起きていること、そしてディープラーニング型コンピューターの中で行われていることを、特徴付けている説明だとは思えませんか。

反復を繰り返すことで、帰納的に身についていく能力。理屈ではなく、計算でもなく、経験を元にする能力。答えは一つではなく、様々なありようのある能力──以前のノイマン型コンピューターではなく、最新のディープラーニングAIの能力。

人間の脳の活動もAI同様に、目には見えない世界です。顕微鏡で覗いても、何が起こっているかは分かりません。その反復とアウトプット、学習と習熟度を観察し、理論と予想を組み立てることでしか解明できない、複雑な仕組みです。そこまでは同じなのですが、肝心な一点において、AIとは一線を画します。

それは自発的に考えることができる点。自動的に感情が湧き起こるところ。AIはその能力を兼ね備えてはいません。人間の場合は何がその引き金──何がトリガーとなって発動するのか。この一点を見極めることが、人間の脳と、ディープラーニングAIの境界を線引きする決め手になると思われます。

つまり「心」です。AIは心を持つのか──命じられなくても、自ら考え、感情を持ち、自発的に動き始めるようになるのか。その「トリガー」は何なのか。その「引き金」自体を持ち合わせているのか。その「きっかけ」を汎用的な哲学用語で言えば「自由意志」、アリストテレス流に言えば、実践するための知、プラクシス、「フロネシス」になるのではないか──と僕は考えています。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。