独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
ひと区切りつけます!
第10回を迎えました『焚き火哲学』──まずは「哲学とは」と題し、苦手意識のある方であっても、「哲学とは何ぞや?」という疑問を解くところから始めさせて頂きました。ここまでお読みになって、結局のところいかがでしたでしょうか。お分かりになって頂けましたでしょうか。
後半ちょっと専門的になって、細かくなって、難しくなっちゃったかなーとの反省も感じてはいるのですが、ここで一回、大筋をまとめて、初回からの流れを振り返ってみたいと思います。
ここまでの振り返り!
*スケプティシズムとタウマゼイン
普通の学問はその名称から何を対象にしているのかがすぐに分かります。医学は医療、物理学は物理現象、経済学は経済、法学は法律を──といった具合にです。しかし哲学となると「何を扱う学問なのか?」がイマイチ分かりにくい。森羅万象の全てを対象にしているからです。逆を言えば、だからこそ「万学の祖」足り得るのです。
そういった事情が「哲学」を分かりにくくさせている要因の一つなのですが、その難解さを切り崩すために、哲学の精神とされる基本から、説明を始めました。それは「あたりまえのことを疑う(スケプティシズム)」と、そのことで得られる「驚き(タウマゼイン)」にあるとされています。
*コギト論と形而上学
この「あたりまえのことを疑う」時、究極を突き詰めれば、世界の存在自体を疑うところまで行ってしまいます(コギト論)。序盤からいきなり暴走しすぎた感もありますが、東洋哲学の「色即是空」も同じことを言っているから驚きです。まさにスケプティシズムとタウマゼインですね。
そして、残るのは「我思うゆえに我あり」という私たちの意識だけになります。突き詰めれば世界とは、我々が世界をどのように認識するかに全て依拠していることになります。ですから「哲学」≒「認識論」であり、その認識の仕方を研究する学問が≒「形而上学」となるのです。
*イデア論と四原因説
その認識を大きく区分すれば、物事を上から見るか下から見るか、外から見るか内から見るかの2通りになるとされています。そしてギリシャの時代から哲学は、上から見る外因説(演繹)と、下から見るとする内因説(帰納)の間を反復しながら進化してきたのです。
しかも「万学の祖」でもある訳ですから、哲学に限らず全ての学問が連動して、プラトンのイデア論的に「定義や法則から物事を研究、決定」したり、アリストテレスの四原因説的に「物そのものを観察、実験」することで、発展してきたのです。前者を「合理主義」、後者を「経験主義」と呼ぶこともあります。
ひと区切りのあとがき
哲学があまりにも分かりにくく、分かりにくい故に嫌われ、大切なのに知られなさ過ぎている──という歯がゆい現状を打破するために、このような切り口から始まったのが本稿です。「乱暴すぎるかな」とも思ったのですが、世にある「入門書」自体が入門を拒んでいるかのように分かりにくく書かれている物ばかりなので、誤解を恐れずに敢えてこのような形式、このような語り口にしました。
上記の通り振り返りまとめてみると、専門家の人からは怒られそうだな〜とも心配になりますし、我ながら上手く展開できたな〜と、少々の満足感も得られています。とにかくこの切り口で哲学を語り、説明してくれる入門書には出会ったことはないので、これが誰かの何かに役に立つようなことがあれば、幸いです。
そして何よりもの一番の願いは、一緒に「哲学を楽しんで欲しい」ということです。哲学者たちが集まって語り合ったアテナイの学堂のように、焚き火を囲んであれこれを語りたいという想いです。
今話題となっている最新のAIまでもが、この2人の哲人の手の間を往復しながら生まれてきたのだと聞くと、壮大なタウマゼイン(驚異)を感じませんか。またそれにともなって興味、関心、好奇心が湧き起こってはきませんか。
湧き起こる人、沸き起こらない人、当然いらっしゃると思いますが、その違いの鍵となるのは、前回ご紹介した「フロネシス」にあると僕は睨んでいます。このフロネシスを足掛かりにして、「焚き火哲学」は次章に突入します。ご期待ください!!