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コラム
焚き火哲学*12
『自由論②本当は自由?』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

現在の「不自由」とは

「自由論」と題して語っていくことにしました第二部。自由を愛し、自由を求めるキャンパー、アウトドアマン、焚キビストの皆さんに、様々な哲学的な考え方をご紹介しながら、さらなる自由への扉を開いていきたい──という思いで始めました。

しかしながら初回となる前回は、いきなり「人は奴隷である」という不自由論を展開してしまいました。「奴隷」「不自由」──と言われると、そうは思っていなくても暗い気持ち、嫌な気持ちになる方もいらっしゃるかもしれません。

しかしそんな、そんな杞憂はまったく要りません。

近年の思想家、社会学者、哲学者の中にはこの「不自由論」を唱える人が多いこともお伝えはしましたが、そもそもこうやって「不自由」に着目するようになっただけでも、人類にとっては大きな進歩なのです。

だって、歴史を長い目で見てみれば、奴隷の時代、封建制の時代──不自由に生まれ、不自由に生きていた人たちが山のようにいたのです。不自由が当たり前の時代だったのです。

こうやって自由が語れ、自由を求めることが可能になっただけでもありがたい、大きな前進だとポジティブに捉えるべきなんです。

ですから、あまり深刻にならず、明るくポップな気持ちでお読みくださいね。




構造主義

哲学の大きな潮流に「構造主義」と呼ばれるものがあります。世界は目に見えない「構造」「フレーム」「枠」──の様なもので決定されていると主張する有力な説です。そして目に見えないどころか、普段は意識もされないから、僕たちは知らず知らずのうちにその「構造」「フレーム」「枠」の中に閉じ込められていると考えもします。

先に述べた通り、ずいぶんな進歩だとは思います。大昔の封建時代は「意識されない」どころか、王様の「圧政」や、社会の「しきたり」でがんじがらめ。ご存知の通り職業選択の自由もなく、結婚相手も選べないのが当たり前でした。

20世紀に入って、この「構造主義」哲学が勃興し、目に見えない不自由に注目が集まるようになっただけでも、ずいぶん人類は自由になったんだなぁ──と感慨深くなります。

本項が取り扱う「不自由」は、昔の人と比べれば本当に取るに足りない「不自由」。「自由」を獲得したからこそ、最後に気になってくるような「些細な不自由」になります。




馬と草履の故事

今回は、その一例を提示します。昔読んだ本の話でウロ憶えのところもあります。すみません。確か内田樹さんによるレヴィナスの本だったと思うのですが、次のような中国の故事を持ち出して、その見えない「構造」「フレーム」「枠」を説明されていました。

ある日ある時ある人が、道を歩いていてると、向こうから馬に乗った人がやってきた。そしてすれ違いざまに馬上の人物が履いていた草履を落とした。徒歩の人はそれを拾ってあげた。

まず、前段階の設定はこれだけです。

そして別の日の別の時、同じ人が同じ道を歩いていると、向こうから前回と同じ人が馬に乗ってやってきた。そして前回と同じように草履を落とした。なので前回と同じように拾ってあげた。

ここで「構造」「フレーム」「枠」が立ち上がるというのです。




寝ながらはじめて学ぶ前に

「構造主義」と呼ばれる哲学は、あのサルトルの「実存主義」を打ち破り、20世紀前半を制すような一大ムーブメントを巻き起こしました。関わる哲学者も多く、他ジャンルの学問に与えた影響も多岐に渡っています。

ですからその思想は複雑で難解で、とてもとても一言で説明できるようなものではありません。僕も最初は入門書として有名な2冊の名著、橋爪大三郎さんの「はじめての構造主義」、内田樹さんの「寝ながら学べる構造主義」からのお勉強を試みました。

だめでした。

もうとにかく難しい──お二人ともすごく簡単に、優しい語り口で説明して下さる姿勢はあるのですが、凡人以下の理解力しか持たない僕は「構造主義が分かった!」というカタルシスを得ることができませんでした。ですから第一部同様、それをさらに簡単に解きほぐし、読者の方々にお読みいただこうと腐心しています。言うなれば「寝ながらはじめて学ぶ前の構造主義」ですね。




構造主義のイメージ

専門家の方は責任のある立場におありですから、あまり大胆な解説は許されないのかもしれません。僕が平気で使っている「構造」「フレーム」「枠」というイメージも、正確には「差異の体系」と呼ばれます。僕たちが頭に思い描いている針金や鉄骨のような枠、フレームの構造自体も取っ払っちゃった方が正確です。

でもその針金や鉄骨のイメージがないと、「構造主義」と聞いても何のイメージも頭に浮かべられなくなるので、正確さが損なわれようともこう説明したのです。あるいは見えない針金や、鉄骨だと思われ方が良いかな。

そして先ほどの草履の話。1度目の草履を落として拾ってあげた時は、たまたまの偶然。事故とも言えない出来事です。そして2度目の草履を落として拾ってあげた時も、普通の人なら同じような日常的な出来事だと捉えるでしょう。同じような偶然がたまたま2回目起こっただけだろう──と。

ところが哲学者という人はそこに何らかの意図を見出すのです。これは果たして偶然だろうかと。2回目に拾った時に、拾わないという選択肢はあったのか。それ以前に馬上の人は、2回目も偶然草履を落としたのか。あるいは意識的に落としたのか。すると拾う人にも何らかの強制力が働いていたのではないのか──と。

どうでも良い細かいこと言ってますよね。




見えない強制力

しかしこの暗黙の強制力に注目するのが近代以降の哲学、「構造主義」です。僕たちを縛る見えない針金、フレーム。何らかの象徴、記号であるという分析に発展することもあります。

前回「あるある」のように例に出した、焚き火の手順、設営のレイアウト、ギアの選択、インスタやYouTubeの配信にも、こんな見えない強制力が働いています。もちろんキャンプに限らず、日常生活のあらゆる場面において。僕の書く、こんな連載のスタイルにさえ働いています。

というか、最初は楽しみで始めたはずのそんな活動も、回数を重ねてくるとぶっちゃけ面倒臭くなることもありますよね。でもそれは、早くも2回目の活動から始まっていたのかもしれません。──目に見えないところで。──あるいは初回から。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。