ホーム画面に追加してね>>
コラム
焚き火哲学*13
『自由論③CAMPポストモダン』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

繰り返しから生まれる制約

本当に自由になるためには、何が自分の自由を縛っているのかに目を向けてみよう──という趣旨で、前回は「草履の逸話」をお話して幕を閉じました。

たまたま馬上の人物が落とした草履を一度拾ってあげると、同じことが2度目に起きた時にも拾ってあげなくてはならなくなる──というお話でしたね。目に見えない「制約」を表現したよくできた喩え話だと思います。

これって日常生活においてもよく起こることで、「ルーティン」に落としこまれると意識できないこともよくあります。

雨に濡れたテントやチェアを、いつものように元の袋に一生懸命入れようしてて、よくよく考えてみたら別のビニール袋に入れて帰って、乾かしてから入れた方がいいじゃん! ──と後から気付いたりね。

究極を言うと「挨拶」自体も「草履」と同じ。「おはよう!」と言われて「おはよう!」と言い返さないと生まれる気不味い沈黙。何かを言い返さないいけないような強制感──でも挨拶って重要ですよね。円滑な人間関係や社会生活のためにも。




当たり前を意識する

この2例を挙げてみるだけでも、「必要なルーティーン」と「不必要なルーティーン」の2通りがあることが解ります。「要」「不要」──ただ共通して言えることは、両者ともに意識されないことが多いということです。

「あたりまえ」だと思っていることを疑問視する。当然だと思っていることにメスを入れる。これが第一部の冒頭から論じている哲学の姿勢です。よくよく考えてみたら実は意味のないことだった、無駄なことだった──なんて気付くこともありますよね。「何の役にも立たない」とされがちな哲学ですが、こんな時は有益だったりします。

しかし哲学は「必要なルーティーン」の方にこそ異常にこだわるのです。必要で当たり前な「挨拶」の方に疑問の眼差しを向けます。「挨拶」なんて単なる「言葉の交換」だとも言えますが、言葉自体が哲学にとっての重要な研究対象となっています。

それは「ポストモダン」──言葉、記号、データ、数値などの大量な情報がメディアやコンピューターを通じて処理される「高度情報化社会」──つまり現代にとっての重要な研究課題ともなっています。

※「ポストモダン」──モダン(近代)化のポスト(後)の時代ということで、工業が発達した近代の後の情報の時代(現代)を指します。




加速するポストモダン

繰り返し、反復、ルーティーン──これが目まぐるしい速度で発動しているのが、僕たちを取り囲む高度情報化社会です。ポストモダンという言葉が使われ始めたのはもうかなりの昔になりますが、スマホ、SNSの登場により加速には拍車がかかっています。

定型文句ばかりをやりとりするtwitterやLINEを「テキスト文化」と呼びますが、昔の手紙とは違い、一文一文を心を込めてしたためるなんてことはなくなりました。3文字くらい打つと予測変換で次のフレーズが出てきちゃったりもしますから。

文字を打つのも面倒になってくるとスタンプや絵文字だけ。定型のテキストすら姿を消します。もちろん読む方も面倒になってきますから、一昔前のブログブームも沈静化。YouTubeにインスタ、さらにショート動画、TickTock、リール動画とスピードはどんどん増して行きます。

挙げ句の果てには「いいね」ボタンでのやり取り。「朝からお財布落としたー!!」なんていう友人の投稿にも、お悔やみを伝えるボタンが他にないので、親指を立てた「いいね」を押すしかなかったり──。




キャンプの効用

だからキャンプに行ってデジタルデトックス。いつも振り回されているネットをシャ遮断して、空を眺めたり、木々を眺めたり、星を眺めたりする時間が貴重になってくるのです。

そんなキャンプの時間ぐらい、自由にのびのび、何にも縛られることなく過ごしたいものですよね。もちろんルールやマナーは守らなくてはいけませんが──そんな「要」「不要」を見極めるためにも、普段からの哲学的思考が役立つのです。

難しいことはありません。あたりまえを疑う──これだけです。

何も考えずにボーッと過ごすのも素敵ですが、あれこれ、あれこれ、あれこれ考えていると、普段の自分の生活を省みることができます。都会から離れた自然の中だからこそ、生活や仕事上でも、必要のない瑣末なことに囚われていた自分に気が付きます。

キャンプの休日が明けて職場に出勤した朝は、いつもとは違う大らかな気持ちになったりしていること──ありませんか。僕はよくあります。週が進むとまたいつもの仕事に忙殺されてしまうものですが、そんなリセットって、とても大切だと思います。




日常を見つめ直す焚き火

逆にキャンプを仕事にしてしまったら、うらやましくもあるけれど、それはそれはツラいだろうなー、とも想像します。仕事で設営、仕事でSNS、仕事で焚き火──平日も休日もなく繰り返していたら、いろいろな縛り、制約、ルールに囚われてしまいそう。

「草履の話」に倣えば、1度キャンプでやらかした失敗の動画がバズったとします。すると次回のキャンプでも同じような失敗を期待してしまったり、思わず演出してしまったり──二足の草鞋ではなく、二足の草履──2匹目のドジョウですね。

もちろんそんな問題への解決策も、この連載の後半で提案していくつもりです。

ただ今回は、それよりももっと基本的なこと。当たり前を疑って、僕たちを縛る目に見えない鎖、ワイヤー、フレーム、構造主義的な枠組みを意識することを提案します。

文字数が嵩んできたので、詳細な説明は次回に続けますが「パーキンソンの凡俗法則」「マートンの目的置換(官僚制の逆機能)」などを調べてみると、日常生活、特に仕事においての不要なものが見えてきたりするものです。

ま、焚き火でも眺めながら、ゆっくりと考えてみてください。














Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。