独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
自由を縛る自分
実は自分の自由を縛っているのは自分だった? そんなバカな? ──という展開になってまいりました第二部の「自由論」。ここでちょっと原点に立ち戻りたいと思います。
そもそも人間とはどんな性質の生物なのか、なぜ自らの自由を縛ってしまうのか、翻って、なぜ自ら奴隷になろうとするのか──構想主義やポストモダンからは少し離れて、おまけに時代を少しさかのぼって、そもそもから考え直したいと思います。
時代は中世の終わり。西洋では長い間、人は神がおつくりになったものという考え方が主流でした。キリスト教ですね。その力が次第に弱まってきて、例のルネッサ〜ンス! という人間を再発見する時代が始まります。そのあたりからお話をはじめましょう。
ホッブズ(性悪説)
と言って、いきなり世界史のお勉強です。「トマス・ホッブズ」「万人の万人に対する闘争」「リヴァイアサン」──ルネッサンスももう終盤、17世紀ぐらい。ここら辺のワードは試験で暗記させられるのですが、皆さんは記憶にありますか。僕はありません。「リヴァイアサン」と聞くとファイナルファンタジーの方が頭に浮かんできてしまいます。「バハムート」「オーディーン」──懐かしい召喚魔法。
まったく学生の頃のお勉強は、謎の呪文を暗記するだけで、何の役にも立たないんですよね。すぐに忘れちゃうし。大人になってからあらためて勉強し直したクチです。
ホッブズ──この社会学者(哲学者)が何を唱えたのかというと、「原始時代の人は、お互い奪い合い、殺し合い、常に闘争状態にあった。人は放っておくとロクなことをしない。だから国家と法律、リヴァイアサン(海竜)のようなより強大な権力で縛り、秩序を保たなくてはならない」というような国家観です。
ここでは人間とは、放っておくと悪事をはたらく、身勝手で利己的な存在と見なされています。いわゆる「性悪説」ですね。
「性悪説」だけに着目すると、こんな否定的な人間観になってしまいますので、それを唱えたホッブズも否定的に見られがちですが、彼はそれ以前の封建的な国家観──王様は絶対で、王の権力は神から与えられたものだとする「王権神授説」を打ち破った思想家として、評価もされるべきだと思います。
絶対的な不動の価値観から、平等で相対的な価値観への扉を開いた人でもあります。
ロック(性善説①)
それから約50年ほど経って、また世界史で聞いたような哲学者「ジョン・ロック」が登場します。彼はホッブズの社会契約説を批判的に受け継ぎ、「性悪説」を「性善説」へと昇華させました。
彼は「人は放っておいても牧歌的・平和的状態に暮らしていける」と考え、公権力に対して個人の優位を主張。そして個人の「承認」によって政府は設立されるべきだと説きました。今の民主主義ですね。
彼の考え方は、アメリカ独立宣言、フランス人権宣言に大きな影響を与え、今も多くの国の憲法の中に生きています。
性悪説or性善説
ホッブズorロック──あなたはどちらに近い人間観をお持ちですか。軍国主義を主張するような荒っぽい人々の中には、今だにホッブズを信奉する、性悪説派の人もいます。ですが概ね世界中の国々は、特に先進国は、ロックに基づいた性善説でまわっています。各国の憲法からして、ロックを基にしています。ということは、歴史的にはロックが正しいとされているのかな。
僕はどちらも違うと思います。
ルソー(性善説②)
それからまたまた50年ほどすると、3人目「ジャン=ジャック・ルソー」が現れます。試験ではどっちが「ルソー」でどっちか「ロック」か分からなくなって苦労する人ですね。
ルソーはフランスの田舎を放浪した体験から、ロック同様に「人は放っておいてもお互い協力し合い、共同体をつくっていく善良な存在だ」という人間観を構築します。また、そういった人々の「一般意志」を持ち寄って、民主的な政治を行うことを提唱。フランス革命の直接的な原動力になったとされる思想家です。
彼の人間観は性善説に基づくものではありましたが、有名な教育論の書「エミール」の中では「人は皆善良に生まれる。しかし成長するにつれて社会のルール、システムが人を邪悪たらしめる」という、消極的教育論を展開しました。
今でも熱心な先生の中には、生徒に校則を守らせることを是とする人が多くいますが、それは積極的教育論と呼ばれ、はるか昔にルソーにより否定されているものです。子どもたちが本来持っている「善さ」を引き出すように、あまり手を掛けないのが理想的な教育だとルソーは忠告しています。
そして近代へ
3人のうち誰が正しいのかは分かりません。そして誰も正しくはないのかもしれません。ですが僕にはやはり、最後のルソーの人間観が一番先を進んでいるように感じられます。さらには、その先を論じた近代の思想家たちが、より的確に人間の本質を捉えているように思います。
それが冒頭で提示した「実は自分の自由を縛っているのは自分だった?」「翻って、自ら奴隷になろうとする」人間観になります。
人は生れながらに善でも、悪でもない。ただ社会のシステムやルールに則って悪くなるのだ──というルソーの人間観から出発し、厳密にいえば「善くも悪くもなるのだ」という展開になるのですが、またまた字数が尽きてまいりました。
次回でその詳細を論じていきます。