独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
自由へのソロキャンプ
人は結局のところ悪い存在なのか──性悪説。善い存在なのか──性善説。前回ご説明したホッブズ、ロック、ルソーたちの「性悪説」「性善説」も、つまるところ、人がなぜ集団を作り、社会を作るのかを説明している気がします。
性悪説を説いたホップズは、人間は元々奪ったり盗んだりする悪い存在だから、強い法律や権力で縛らないと社会が成り立たないと考えました。
一方、性善説を説いたロックは、人が原始共同体の頃から自然と群れをつくり、社会を形成するようになったのは、お互いに協力しようとする人間の善い性質にあったのだと考察したのでしょう。
正反対のことを主張しながらも、両者は人間が群れをつくり、集団となり、社会を形成する過程を説明しようとしている点では共通しています。両者ともに社会学者でありながら、哲学者と呼ばれる所以です。
ところがソロキャンプはその逆? 言ってみればその社会、集団からの離脱。自由への逃走になります。本稿ではその「自由」を本当の意味で獲得するために、お話をすすめております。
エミール
でも「性悪説」と「性善説」──言われてみればどちらも正しい気もします。
強い法律で縛らなければ犯罪は減りませんし、逆に自ら勧んでボランティアに取り組む人もいます。世の中には善い人も、悪い人もいますし、また同じ人が善行を積んだり、悪事をはたらいたりもするものです。その点では前回最後に取り上げたルソーの人間観察が若干、その先を進んでいるように感じられます。
「万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる」
つまり「人は皆善良に生まれる。しかし成長するにつれて社会のルール、システムが人を邪悪たらしめる」のだというのが、ルソーの人間観です。
若い時分にフランスの片田舎を放浪したルソーにしてみれば、都会の人よりも田舎の人の方が純朴で思いやりのある気質を持ち、大人より子どもの方が善良に感じられたのでしょう。日本の都会と田舎を比較しても、確かにそんなことは感じます。
貨幣経済と資本主義の毒にまみれ、弱者と強者の格差や摩擦、使役や税制に苦しめられる都会の生活は、それだけで人間性を消耗させます。ともすれば騙したり、奪ったり──人を犯罪にも走らせたりもします。
ですから子どもは、天性の善良さを大切に育てた方が良い。社会の規則や、学校の校則もそうですが、人間本来の感性を殺してしまうような強権的な教育は慎んだ方が良い──これがルソーが彼の教育の書「エミール」の中で推奨した「消極的教育」という教育観です。
紙一重の善悪
しかしこれは一種のパラドックスだとも言えます。社会のルールやシステムに従う人が、本来は「善人」と呼ばれるべき人です。そしてルールやシステムを破る者は犯罪者、悪人として扱われます。ですから学校では、規則やルールを遵守するように躾けられます。髪型や服装、時間などをしっかりと守ることの出来る生徒が優等生とされます。
しかしその優等生は、果たして自らの意思で善い行いに就いていると評価できるでしょうか。物事の善し悪しは、長い時間を経て文化的に形成された道徳観、そして整えられた法律、つまり規則やルールに基づいています。
過激な言い方をすれば、彼らはただそれに盲目的に従っているにすぎないのです。
自らの判断、自分の意思で動いている訳ではないのですから、状況が悪事を要求すれば、唯々諾々とそれに従うこともあり得ます。幼い頃から立派な優等生をつとめ、優秀な大学を出たはずの官僚、政治家、企業トップが、汚職や不正に手を染めるような報道を目にすると、そんなルソーの考えが頭をよぎります。
ま、そこまで大袈裟に考えなくても、単純に人が集まってその数が多くなれば、人間関係が複雑になり、様々な軋轢が生まれ、衝突することや争うことも多くなりますよね。
善と悪は、規則やルールを境にした背中合わせの存在。紙一重の関係にあるのかもしれません。
ピュシスとノモス
ちょ〜っと、話が暗い感じになってしまいましたね。でもご安心ください。僕らはアウトドアを求め、自然を愛するキャンパーです。ルソーに言われるまでもなく、文明社会から抜け出し、牧歌的な空気を享受し、ゆっくりと燃えていく薪を眺めることに喜びを見い出します。
少なくともその間は、都会の、学校の、仕事の、つまらない決まり事や煩わしいしがらみからは解放されています。
そんな僕たちの立ち位置を、古くはギリシャ時代からの用語で表せば、次のような構図に整理できます。まずは「コスモス(宇宙)」があり、その中に「ピュシス(自然界)」があります。そして人間界は「カオス(混沌)」の中にあり、その中に秩序立って構築されたのが「ノモス(秩序)」──今回のテーマとした「社会」となります。
カオスの中にノモスが構築され、その外にピュシスがあるとも言えるでしょうか。前章からのホッブズ(カオス)からロック(ノモス)への変遷。そしてルソー(ピュシス)への憧れ──こんな風に整理した哲学者の考察は目にしたことはありませんが、僕にはそう思えてなりません。
自然回帰の果てに……
まとめますと、人間界の規則やルール、都会の喧噪や複雑な人間関係から離れて、ひとり焚き火に向かう時、人は何にも束縛されていないはずです。少なくとも他人や社会に押し付けられた価値観ではなく、自分の自由な思考でさまざまな事に思いを馳せることが可能なはずです。
まずはその立ち位置をお確かめください。昔から仙人、隠者は人里離れたところで思索に耽る暮らしに入りました。僕たちの週末キャンプであっても、既にその一歩を踏み出していると言えるのではないでしょうか。
もちろん都会から逃げて、自然に回帰すればそれで自由になれる──なんて単純な話には帰結しません。ノモス、ピュシスの話は、まだ次回も続く予定です。今回導入した構図を用いて、さらに考察を深めてまいりましょう。