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コラム
焚き火哲学*17
『自由論⑦不自由な自然』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

ピュシスへの憧憬

ピュシス──自然。雄大な山々や果てしない海、川のせせらぎや林間の鳥の声に僕たちは癒されます。週末を待ちのぞみ、荷物を用意し、都会を離れ、フィールドへと繰り出します。

都会の喧騒を離れ、多忙な仕事、複雑な人間関係から解放されるために。一種の逃避行動。自由を求めてそうしているとも言えますが、自然そのものの魅力、自然への憧憬も、その動機の大きな部分を占めているとも言えるでしょう。

その両方を合わせてしまえば「自然」=「自由」という図式も成り立つかもしれません。一人で無人島で生きていくことになった時、里を捨て山にこもり暮らしていくことになった時、人は確かに自然の中で「自由」を獲得できそうです。

我々の自然への憧れは、果たして本当に自由への憧れなのでしょうか──。




コスモス観の変化

前回はこの世界を──自然と都会の関係、「ピュシス」「カオス」「ノモス」とギリシャ時代の概念に倣って図式化しました。倣っているだけで、この図そのものは僕独自の世界観によるものです。註書きにも書かれているように、オリジナルの構図はちょっと違います。

一般的な哲学書ではノモスとコスモスが対峙するように描かれるものです。昔は神話や宗教など、神の概念がコスモス(全宇宙)をつくっていたからでしょう。ノモスとコスモスが対峙するように、そして補完するように隣り合わせに描かれます。僕が最初にこの図式と出会った、浅田彰さんの『構造と力』の中でもそう描かれていました。80年代ニューアカデミズムを牽引した、ベストセラーですね。

ところが今や宗教や神などの大きな物語はすっかり力を失い、その影響力も弱まりました。その位置に、今や科学が取って代わったと言っても良いでしょう。すると一般的な現代人の世界観としては、僕の図式の方がピンと来るのではないかと思ったのです。

観測も不可能な果てしない「大宇宙」の片隅に地球があり、その地球上で「自然界」と「人間界」が対峙しているという世界観です。




自然と人間の違い

オリジナルと少々違うからと言っても、肝心なところの主張は変わりません。そのまま話を続けましょう。

先ほどの浅田さんによれば、人間とは「EXCÈS」を抱えた存在だと見なせるようです。このEXCÈS(過剰)という概念が謎のまま進行してしまうので、『構造と力』は大変難解な書だとも評されるのですが、僕はこれを──人間の「大脳新皮質」や「自由意志」をおそらく指しているのだろう──と解釈しています。

微生物から草木などの植物、魚類から哺乳類、鳥や昆虫にいたるまで、人間と自然の生き物との違いを決定づける一番の大きな要素は、その大脳の容量にあると言えます。そしてその大脳から生まれる自由意志の自由度が、人間と他の生物とを(類人猿やイルカをも含めて)大きく分け隔てていると言っても良いでしょう。

他の生物は、ほぼ全ての行動が遺伝子、DNA、染色体に刻印された命令により決定されています。本能が「生き残り」「子孫を残す」ことを命じています。言ってみればそれ以外の余計なことをする自由はほぼ与えられていないのです。




カオス

しかし人類は違います。生存には関係ない余計なことにも時間やエネルギーを使うことができます。無駄な会話や遊びに興じたり、無益な学問や仕事にも従事したりします。テレビを見たりゲームをしたり、音楽したり芸術したり、スポーツだって勉強だって、無駄と言えば無駄です。

必要もなくキャンプに行って、焚き火をするのだって同じかもしれません。

しかし浅田さんが注目するのは、その自由がもたらす害悪です。人間は自由であるが故に悪いこともします。他の動物と比べると、過度に生き物を殺します。自分が食べる以上に狩りをして、愉しみのために獲物を余分に殺しもします。人間が人間を殺す「戦争」や「虐殺」となれば、その数は数千万レベルに膨れ上がることもあります。

DNAによる命令──「生き残り」「子孫を残す」からすれば、タバコや酒、麻薬などに溺れることも明らかに健康に悪いですし、出産に繋がらない性衝動に駆られもします。そもそも「自殺」だって、自然界ではほぼ見られることのない人間特有の行動です。

その全てを一つの原因に帰結させることは乱暴かもしれませんが、大きく発達した大脳新皮質が関わっていることは確かでしょう。その大きな脳から生まれる「自由意志」が、人間を様々な奇行に走らせるのです。この状態を今やコスモス、ピュシス、ノモス以上に有名になった言葉で「カオス」と呼びます。

このように「EXCÈS」とは人間が発達させた過剰で、余計で、無駄な部分であると言って良いでしょう。




自然は不自由?

人間は他の動物と比べて、混沌、混乱、錯乱状態の中にいる。「生」に逆行している。「死」を希求さえもする。カオスの中にいる。

それに比べてピュシス(自然)は、全てが同じ方向を向いている。すべてが「生」の方を向いている。そして様々な生存戦略と、ギリギリの淘汰によって、お互いがお互いを補完する食物連鎖、生態系としての調和までをも達成している。

だからこそ、人は自然に憧れるのかもしれません。だからこそ、ルソーも自然状態を「善」とする「性善説」を唱えたのかもしれません。

もちろん、この憧れを我々キャンパー、アウトドアマンの自然への憧憬と重ね合わせることは、我田引水が過ぎるかもしれません。しかし世界に溢れる様々な音──鳥の鳴き声や虫の音、彩々な色──咲き誇る花や珊瑚礁の魚たち、そしてその調和。時間ごと、季節ごとにその様相を変えていくその規則性と正確さ。自然のストイックさ、迷いのなさに我々が憧れているのだとすると、ひとつの逆説が出来します。

ピュシスの魅力はその「不自由さ」にあるのだと。

次回、このパラドックスからさらに論考を深めていこうと思います。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。