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コラム
焚き火哲学*18
『自由論⑧自由なるカオス』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

ピュシスの呪縛

自由を求めてキャンプに行く。自由を求めて自然に繰り出す──としても、その「自然(ピュシス)」そのものが自由じゃないのかもしれない。自然とは全てに調和が取れ、「生」に溢れた世界である。その中ではあらゆるものが規律正しく、「生」の命じるままに生きている。そんな決められた法則の中に我々が「自由」を見い出すことはできない。

ギリシャ哲学の世界観に基づいた、そんな筆者の自由論を展開してきました。こう考えると「自由」とは、非決定的な「ゆらぎ」、決められた法則からの「逸脱」にあるとも定義付けられます。

決められた法則──「因果論」「決定論」に相対するのが「自由意志」だとするのも一種、哲学的な考え方です。つまり僕たちが自由に考えることが出来るのも、僕たちの脳内の活動が、コンピューターの演算とは異なるからだとも説明されます。

決められたプログラムがはじき出す結果ではない──「決定論」から導かれる「因果」では決してない、僕たちの「自由意志」はそんな呪縛からは免れているのだとする考え方です。

自然が命じる呪縛。DNAが命じる呪縛。ピュシスの呪縛。そこから自由になることができるのが、人間という存在なのかもしれません。




自由の正体

その原動力は大脳。人間だけが発達させた大脳新皮質にあると言って良いでしょう。160億個からなる脳細胞、つまり神経細胞。ニューロンとシナプスの複雑な連携が、僕たちの複雑な「自由意志」を生み出しています。

その仕組みには「受動意識仮説」「量子脳論」「ライフゲーム論」──さまざまな脳科学分野からの仮説がありますが、とにかくそこから紡ぎ出される「ゆらぎ」、「非決定性」こそが自由の正体です。

ちょっと難しい話になってしまったかもしれませんが、本当の自由とは何にも縛られない、何にも強制されない自由。そこには社会のルールや義務もなく、物理、化学のいかなる科学的因果関係にも縛られず、生命としてのDNAからの命令にも束縛されないまるっきりの自由があります。

僕が今こんな文を書いているのも、自由に考え、自由に行動できるからこそ。そもそも「自由」を意識し、自由について考えることができるのも、「自由意志」を持っているからこそ。他の動物には出来ません。人間だからこそ自由に考え、自由を考えられる。そう思いたくはありませんか。

そう思わないとやってられなくはありませんか。




自由を獲得した人間

しかし、その自由は「自然(ピュシス)」に思いっきり背を向けるものでもあります。「生」へのベクトルとは逆、「死」を指向するベクトルにもなり得ます。「混沌(カオス)」──何の制約もなく、あらゆる方向にゆらぎ、乱れ、ベクトルが錯綜するカオスの世界です。

前回はこの「カオス」を悪い側面から捉えました。狩りをするにしても、他の動物以上に殺してしまう人間。自分が食べる以上に、愉しみのために狩ってしまう人間。同族でも殺し合い、何千万人もの犠牲者を出すほどの戦争、虐殺にまで発展させてしまう人類。そして自らをも殺す、自殺をしてしまう人々──。

悪い側面から捉えれば確かにそうなりますが、あらゆる方を向くベクトルは、偶然に善い方向を向くこともあったりします。自由な方を向くわけですから、たまたま善い方を向くこともあり得ます。例えば弱者を守ったり──他の動物を助けたり──これらも他の動物にはあまり見られない、人間特有の行動です。




自由こそが人間らしさ

大脳から生まれる「自由意志」は人間の行動に多様性を与えます。他の生物では、ほとんどの個体がほとんど同じ行動様式を示すのに対し、人間の行動はさまざまです。趣味や嗜好もいろいろで、生き方や住む場所も多様です。

結婚しても良いし、しなくても良い。子孫を残しても良いし、残さなくても良い。異性で愛し合っても良いし、同性で愛し合っても良い──特に自由と多様性が認められるようになった先進国から、お互いを認め合い、助け合う社会が実現され始めています。それこそ他の動物の集団とは異なる、人間特有の社会です。

要は、乱れた「生」、錯綜するベクトル──自由こそが人間を人間たらしめていると言っても良いでしょう。カオスこそが人間の住むべき社会なのかもしれません。

そして逆に、人間はもう決して自然に帰ることはできないともされています。もう他の生物と同じようには、自然に生きることは出来ないとされています。いちど大脳を発達させ、自由意志を獲得してしまった以上、もう純粋に「自然(ピュシス)」を認識することは出来ないのです。




焚き火を哲学する

考えてみれば、この連載の主題──「焚き火」だって、決して自然のものではありません。我々人間の他に、火を扱う生物はほとんど見当たりません。薪を集めて火を点けるなんて、極めて人為的な営みです。そんな火を眺めながら、我々の心に去来するさまざまな感情も、極めて人間的な感情だと言えるでしょう。

大自然の風景を眺めて「美しい」と感じたり、移りゆく季節に「郷愁」を感じたり、僕たちキャンパーが感じている自然の魅力も実は焚き火と同じ、人間ならではの視座、物の見方、パースペクティブに基づきます。つまりは「自由意志」です。

自然や焚き火そのものが自由なのではなく、それを眺める僕たちの意思、そして意志が自由に解放されているのです。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。