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コラム
焚き火哲学*21
『SM論①洞窟の外へ』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

第三部に入ります

新たに『SM論』なんて銘打っていますが、もちろん「サーマレストマット」の略でもありませんし、「女王様とお呼びっ、ピシーッ!!」でもありません。ゆくゆくご説明することにして、その前に、これまでの流れをざーっと振り返っておきましょう。

第一部では『哲学とは』と題して、そもそも哲学という学問が何なのか──から始まり、「あたりまえを疑う」時に感じるタウマゼイン(驚異)の精神、「人が世界をどう認識しているのか」の形而上学、そして「上から、下から」世界を見るプラトンとアリストテレスの考え方をご紹介してきました。

第二部では『自由論』と称して、「上から」が強まる現代の高度情報化社会の暴走を注視することから始めました。中盤、初期社会学の性善説vs性悪説的な人間観を経由し、実はカオスの中にこそ自由が見い出されるのだと、最後には焚き火の有用性に辿り着きました。

──初めて読まれる方にはちょっと何言ってるか分からないですよね。10章ずつある各部を数行でまとめるのは無理があります。未読の方は、お時間のある時にお読み頂ければ幸いです。どの章から読んでも支障のないよう、分かりやすくは書いてあるつもりですので。




焚き火と哲学

そしてこの第三部も、何より「分かりやすさ」をモットーに書いて行きたいと思います。そもそもこの連載を始めた動機のひとつが「世の中には分かりにくい哲学書が多すぎるっ」でしたから。第一部『哲学とは』をお読みいただければ、哲学全体が何をする学問なのか、大雑把にお分かり頂けると思います。

そこから第二部『自由論』へとお進み頂ければ、この連載と焚き火の関係がおぼろげに見えてくるかと思います。厳密に言えば「焚き火」というより──「火」そのものに関する考察かもしれませんが。

人間だけが扱うことのできる火(オーストラリアには山火事の火で狩りをする鳥がいるそうですが)。破壊をもたらすこともあれば、陶器や鉄器などの文明をもたらしもした火。この火の特殊性を足掛かりにして、第三部ではさらに焚き火哲学を深掘りしてまいります。

その嚆矢となる今回は、哲学としてはかなり有名な「焚き火」にまつわる寓話をご紹介しましょう。




洞窟の比喩

ソクラテスの「太陽の比喩」「線分の比喩」に続き、弟子のプラトンが『国家』第6巻の中で説明した世界のあり方。僕たちはまるで洞窟の中で暮らす囚人のように、狭く暗い世界の中に生きているという喩え話です。

洞窟の中では火が焚かれています。その火は洞窟の奥の壁に光を投射しています。入り口ははるか上方。外の世界の太陽の光は、洞窟の中まではわずかにしか届きません。

そしてその入り口からは次々と謎の人たちが、様々な物を運びながらその火の前を通り過ぎます。当然、その物の影が奥の壁にゆらめき映り、洞窟にはそれを運ぶ謎の人たちの声が響き渡ります。

僕たちは生まれた時から、その洞窟の壁を世界のすべてだと思い込んで生きています。壁に投影されたものを実体だと思い込んでいるのです。それ以外を見るとことはありません。影を映し出しているその光源も、洞窟の外にある世界も、さらに明るい光を放つ太陽も──。




比喩の解釈

この話はプラトンの説いた「イデア」を図式化したものだと説明されます。「イデア論」については第一部『哲学とは⑦イデア論(外因説)』で扱っていますので、よろしければお読みください。ただ、今回の話では特に理解しておく必要はありません。このまま読み進めてください。

「イデア」もそうですが、この「洞窟の比喩」もさまざまに解釈されます。物事の表面だけしか見ようとせず、その裏側や本質を見ようとしない人間の愚かさに警鐘を鳴らす喩えとして引用されたり──。

またはこの、遥かギリシャの昔に書かれた比喩が、平面の壁に映し出される2次元の像を想定しているところから、現代で言うところの映写機やテレビの出現を予言しているのだと深読みされたり──。

はたまた──(個人的には一番好きなのですが)これが映画「マトリックス」のような仮想現実を想定しているのだと説く解釈です。メタバースのようなコンピューターが作り出すバーチャルリアリティ。我々の認識している世界はシミュレーションであり、プラトンはその真実を暴いたのだ! ──と力説されたりします。




太陽の世界へ

まぁ、そんな暴論も否定はしきれないのですが、本稿が注目したいのはその洞窟から外に出た人々の動向です。

プラトンの寓話では、洞窟の外に出た人々は、本物の太陽の眩しさに目が眩み──。自分の信じていた世界がまやかしだったことに混乱したり、逆上したり──。逆に外界の明るさに慣れると元の洞窟の壁に映る影が暗過ぎて見えなくなり──。洞窟に囚われている他の人にその真実を伝えようとするも拒絶される──。

プラトンの師、ソクラテスもまさにそんな役割を担い、真実を伝えようとして刑に処されたのだと解説されることもあります。でも、哲学そのものの役割も、多かれ少なかれ同じところにあるのだと考えます。

ぜひこの「洞窟の喩え」を心の片隅にとどめおいて下さい。本稿もこの第三部で焚き火から離れ、明るく眩しい太陽の元に躍り出ていく道を模索していくことになります。哲学としてはようやく、近代から現代にかけての思想に触れていくことになりますので、ご共感いただける内容も増えてくると思われます。

どうかご愛読いただけると幸いです。














Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。