独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
日常と非日常
それでは第三部の本題に入りましょう。前回の洞窟の話は単なる導入に過ぎなかったのですが、ゆくゆく大切になりますので、心の片隅に留めておいてください。今回は「日常」と「非日常」の話から始まります。
キャンプといえば、その醍醐味は「非日常感」にあると言っても良いですね。
ありきたりなイメージで言えば、普段は人混み溢れる都会で、仕事と時間に追われ、単調で無味乾燥な毎日を送っている生活が「日常」。
一方、開放感に溢れる広々とした大自然の中、自然の色彩や音に五官を研ぎ澄ませ、何にも邪魔されることのないゆったりとした時間を過ごすキャンプが「非日常」──と言って良いかと思います。
この2つの対立概念を、実はさまざまな思想家が、さまざまな用語で表し、論じています。日本では民俗学者である柳田國男さんが「ケ」と「ハレ」という用語を使われ、ブルガリアの言語学者、ジュリア・クリステヴァさんになると「サンボリック」「セミオティック」という概念で説明されています。
ノモスとカオス
その他にも「エタ」と「ナシオン」、「ゲゼルシャフト」と「ゲマインシャフト」、「昼」と「夜」、「他者」と「自己」、「外」と「内」などなど──さまざまな対立概念でも説明され、定義するところもそれぞれ違ったりするのですが、共通しているのは「ノモス」と「カオス」。人間の両義性を表すこの2つの概念の喩えとして成立していることです。
「ノモス」──秩序、規範を意味するこのギリシャ語は、言うなれば「日常」の世界。柳田さんやクリスティヴァの用語で言えば「ケ」や「サンボリック」。毎日決められた時間に起きて、会社に行き、法を守り、税を納める「他者」が織りなす「外」の社会、「昼」の国家を意味します。
「カオス」──無秩序、混沌を意味するこのギリシャ語は、言うなれば「非日常」の世界。柳田さんやクリスティヴァの用語で言えば「ハレ」や「セミオティック」。「自ら」の「内」なる世界に蠢く欲動の場、「夜」の国家を意味します。
以前すでにご説明してある概念なので、ちょっと乱暴な整理となりました。人間を他の動物と分け隔てるのは、その巨大に発達した脳。そしてその脳から生み出される自由意志です。他の動物はほぼ本能に従って、生存と繁殖をその目的に生きてます。
タナトスとエロス
ところが人間は、他の動物が持ち得ない「タナトス」や「エロス」に駆動されます。必要以上に獲物を殺したり、戦争や大虐殺、自殺などに走るタナトス(死への欲動)や、繁殖につながる訳でもない倒錯した性癖や自慰に耽るエロスを抱えています。
もし人間が、ホッブズの言うとおり闘争を繰り返す性悪説的な存在だとするならば、そんなタナトスやエロスに翻弄されて、社会はたちまち大混乱のカオス状態に陥ってしまうでしょう。種として絶滅するまでの危機に瀕しかねません。
それを回避するために、人間社会では法や規範が制定され、秩序だったノモスが構築されている──というのもホッブズの社会契約説の主張そのものですね。ただロック、ルソーになると、その規範や秩序は人間が持つ性善説的な性質により、自然と醸造されることになっています。
このようにしてカオスは人目につかない夜の「非日常」にしまい込まれ、ノモスの「日常」を人は生きていくのです。
ポトラッチ
でも、そんな「日常」って退屈ですよね。学校行ったり、会社行ったり、電車乗ったり、ご飯作ったり、お風呂入ったり、歯磨きしたり──。窮屈で息苦しいルーティーンの毎日を、いつまでもそんなに続けられるハズもありません。人はその大脳の中、自由意志にタナトスとエロスという爆弾を抱えているのですから。
そんなサンボリックなケの「日常」に用意されたのが、年に一度や季節ごと、定期的に巡ってくるセミオティックなハレの日になります。つまり伝統行事や宗教行事。村の祭りや暦の中に散りばめられた「非日常」的な発散の場です。そんなたまにやってくる「非日常」を楽しみに、人々は「日常」を静かに、清貧に過ごしているのです。
民俗学や人類学は、世界各地の儀式や祭典にひとつの共通項を見い出しています。フェスティバル(宴・収穫祭)やカーニバル(謝肉祭)においては、慎ましい日常の反動とでもいうように、暴飲暴食や酩酊、乱行が許されます。文字通り酒池肉林の様相を呈することもあります。
また、タナトスやエロスに振り切っている奇祭、珍祭も見い出されます。詳述は避けますが、トランス状態になって奇声を上げたり、ケンカがまき起こったり、無謀なチャレンジに命をかけるような祭りも存在しますし、極めて性的で卑猥な秘儀も多数存在します。
日常生活では憚られることを、敢えて真逆に発散してこその非日常。一種の息抜きだと言えるかもしれませんが、度を越してハメを外してしまうこともあります。現代の日本でも死者を出すほど危険な祭りが敢行されていますが、哲学界で有名なのは、文化人類学者のマルセル・モースが報告した「ポトラッチ」でしょう。
北米やカナダの先住民によるポトラッチという慣習では、競うように食料や物品が大盤振る舞いされ、放蕩、浪費のかぎりが尽くされます。まったく非合理的な奇習で、最終的には貴重品を破壊し合うところまで発展するそうです。
ポトラックキャンプ
このポトラッチ──可愛い語感もさることながら、アメリカの「ポトラックパーティー」に通じるところもあって、僕はなんとなく気に入ってます。
語源はまったく異なりますが、「ポトラック(potluck)」の方はご存知でしょうか。まぁ、言ってみれば持ち寄りパーティーのこと。主催者の負担を軽減するために、お客さんが手に手に得意料理を持って集まるパーティーのことです。
これってグループキャンプ、グルキャンの時にはよくやりますよね。「ポトラックパーティー」という言葉自体は日本人にあまり馴染みがないかもしれませんが、キャンパーはもう自然とやっちゃってます。持ち寄りのお酒とお料理で飲めや騒げ──。いつも以上に暴飲暴食しちゃったりするのも、ポトラッチと共通項があったりして──。
まぁ、何事もほどほどが肝心ですが、そんな非日常性もやっぱりキャンプの魅力。くれぐれも周囲に迷惑をかけたり、翌日、仕事に持ち越したりしないように気を付けましょうね。食べ過ぎや二日酔い──。
次回はそんな反動についてお話ししていきます。