独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
キャンプの負い目
皆さんの会社では「休日出勤」ってありますか? 土曜や日曜や祝日の出勤。自分がお休みなら、僕たちキャンパーは当然フィールドに繰り出し、テントを張ったりするものですが、そのとき同僚が出勤だったりすると気になっちゃったりしませんか。「○○さん今頃働いてるんだろうなぁ」とか、「朝からみんな出勤してるんだよなぁ」とか──。
全力でキャンプを楽しもうと心掛けても、ふとした時に「みんなが働いてるのに自分だけ遊んでいて悪いな」って、要らぬ気持ちになっちゃうものですよね。いわゆる「負い目」ってやつです。自分がシフトや業務で縛られてないなら、思いっきり伸び伸びと休暇を楽しめば良いのです。しかし人の心はそんな簡単に割り切れません。キャンプをしている間もちょっとした心の負荷となって、引っかかり続けるのです。
──いきなり嫌な喩え話から始まってしまい、すみません。今回はそんな心の負い目、罪悪感を文化人類学がどう紐解いてきたのか──人間心理のあり方について哲学していきます。
命懸けの交換
出勤日と休日、仕事とキャンプ。この日常と非日常の対比を「ケとハレ」「サンボリックとセミオティック」と──これまではちょっと難しい用語で説明してきました。農耕に勤しむ毎日と年に一度の村祭りの日。禁欲と発散を象徴するような行事や伝統は、どの文化圏にも存在します。その構造を浮き彫りにし、構造化して検討するのが文化人類学のひとつの学問分野だと言えます。
その中には、極めて神聖な行事や祭事がある一方で、極端に破廉恥だったり暴飲暴食の限りを尽くすような珍祭、奇祭も存在します。挙句の果てには命を落としたりまでする祭や伝統が世界の中には見い出されます。いえ、我が国にもありますよね──「だんじり」や「御柱祭」など命懸けのお祭りが。
前回ご紹介したミクロネシアの「クラ交換」もそのひとつ。命懸けで海を渡り、二束三文のどうでも良い物を交換してまわる一風変わった儀式です。ここでは「手段」と「目的」が主客転倒して、交換すること自体が目的化されているのだと前回分析しました。価値があるから交換するのではなく、交換すること自体に価値がある。さらに言えば、交換することから価値が生まれる──これこそが文化人類学から導出された構造主義哲学のセントラルドグマ(中心教義)となります。
重要なことなのでもう一度言いましょう。「交換するから価値が生まれる」のです。
命懸けの経済
ミクロネシアの「クラ交換」は命懸けです。しかし、現代の僕たちにとっても交換は命懸けです。もちろんそれは、そう、お金のことです。貨幣経済──お金の交換に僕たちが命懸けになっているのは、原始の人、未開の文化と同じ、人間の性質。性(さが)であり、質(たち)であると推定できます。
人はなぜそんなにお金に必死になるのか。なぜお金が全てであるかのように思われているのか。なぜお金はそんなに偉いのか──に対する文化人類学、構造主義的考察を、いつものように僕なりに噛み砕いて(≒乱暴に)説明していきましょう。
贈与の一撃
太古の昔、人は物々交換で交易を行ってきたとされています。時には直接会って交換したり、また時には直接会わずとも特定の「交換場所」に物を置いておくことで交換したり(沈黙交易と言います)。想像に難くないですよね。確かにお金が現出する前の経済は、肉と野菜を取り替えっこするような物々交換から始まった感じがします。
先ほど指摘した「交換による主客転倒」は、この物々交換の頃から始まっていると言われます。直接会って交換するならともかく、交換場所に物が置いてあるだけなら、黙って持ってっちゃった方がお得ですよね。単なる窃盗と変わりませんが。
ところが世界各地の沈黙交易を調べてみると、そんな泥棒のような事は起こらないというのです。不思議ですよね。それが人類の持つ質(たち)、例の「負い目」によるものだとされています。田舎に行くとよく見る野菜の無人販売所だって、ちゃんとお金を払う人がほとんどです。貰うだけで返さなければ、人はそれに罪悪感を感じる。マルセル・モースという文化人類学者はそれを「贈与の一撃」と名付けました。返さなきゃいけない、交換しなければならないという強制力が働くのです。
お金の誕生
やがてその交換にはお金、貨幣が介在するようになります。これも想像に難くないでしょう。便利ですからね。でもそれは負い目、罪悪感をますます増殖させることに繋がります。
卑近に僕たちが物を買うときの心理を思い出してみてください。それは単純に自分が持っているお金より、お店で売っている商品の方が価値があるように思えるからです。貨幣なんてただの鉄の塊か紙っ切れです。自分が手に持っている1万円より、売っているテントや焚き火台の方が価値があると思えるから、それを交換する訳です。
そしてそんな交換が何千万回も、何億回も日々繰り返されるのが経済です。無意識のうちに自分が交換しているものが価値のない紙っ切れだと負い目を感じながら。何十億回も、何百億回も。やがてそれは強制力を持ち、主客転倒します。交換自体が自己目的化します。何兆回も何京回も繰り返されれば、「交換するから価値が生まれる」が何兆倍にも何京倍にもなり、とうとうお金は神のように人々の頭上に君臨するのです。人はお金の元に跪き、貨幣の奴隷となるのです。
負い目からの解放
いかがでしたでしょうか? 文化人類学、哲学って面白いですよね。このように起こる逆転現象こそが学問の醍醐味、快感なのです。
でも考えてみればお金って、卑しく下賤なモノだとして扱われていますよね。お金は汚らしい、穢らわしいという価値観は世の中に浸透しています。お金を触ったあとは手を洗いなさいと。
しかし一方でお金は万能。お金を稼ぐために一生を無駄にする人も多くいますし、お金のために命を落とす人も後を絶ちません。
そこから自由になるにはまずそのカラクリ、その構造と原理を理解すること。そしてその駆動力となっている「負い目」「罪悪感」を自覚することです。要は会社の皆が出勤している休日でも正々堂々、負い目なんて感じずに、思いっきりのびのびとキャンプを愉しむことが大切なのです。