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コラム
焚き火哲学*25
『SM論⑤キャン倫』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

キャンパーと資本主義

前回お伝えした「お金の話」──それ自体には何の価値もない紙切れや鉄の塊──紙幣や硬貨が物へと交換される。世界中で毎日何億回、何兆回と繰り返されるその交換が経済、資本主義社会へと発展。いつの間にか「神」として我々人類の頭上に君臨するお金。我々は皆お金にひれ伏すようになる──というなんだかちょっと怖いお話でしたね。

あなたはお金から自由ですか? 同じキャンパーでも、モノを増やさない倹約型と、買っても買っても飽き足らない消費型に分かれたりもしますよね。ミニマリストに憧れつつも、気がついたらテントを5張りも10張りも買ってしまっていたり。次々と魅力的なギアがリリースされる世の中ですからね。物欲を抑えるのはなかなか難しいものです。




主客転倒する目的

でもまだ、欲しいモノがあってそれを買うぐらいならマシだと思うんですよね。

構造主義哲学では、紙幣や硬貨の交換が強制力を生むとされます。その交換の必要性により人間は社会を形作るようになった。人間を社会的動物へと進化させる原動力になったとされます。しかし現代ではそれが行き着くところまで行き着き、既に交換は目的ではなく、お金そのものが目的となったように感じられます。

つまり何を買うでもなく、遊ぶでもなく、ひたすらにお金を貯めること自体を人生の目的にしている方もいらっしゃいますよね。極端を言えば「金の亡者」と呼ばれるような方々ですが、我々キャンパーも決して無縁とは言えないかもしれません。

普通にサラリーマンとして働いていても、いつの間にか仕事が遊びより優先になり、家庭より優先になることはよくあります。そして働き盛り、壮年期を過ぎ、定年に至る頃には人生の目的も失ってしまう。趣味もなく、友人もなく──。金の亡者とまではいかなくても、そんな方々はよく目にしてきました。せめてキャンプの趣味ぐらいは維持したいものですね。




マックス・ヴェーバー

人の性質は「性悪説」ではなく「性善説」でもなく、倒錯した「カオス」にあるとされますから、すぐに倒錯して主客が転倒してしまうんですね。しかも二転三転、コロコロと──。

今一度復習しておきますと──自分一人で肉も魚も野菜も生産するのは大変。分業して生産し、肉と野菜を交換する方が効率が良くなる。やがて交換することが主体となりお金が生まれる。しかしお金の交換はさらに強い強制力を持ち、交換自体が主体になる。最終的にはお金そのものが主体となり、人は人生や命までをもお金に捧げるようになる。

近代社会科学の創始者とされるマックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というやたらと長いタイトルの本で、その仕組みを説いています(あまりにも長いタイトルなのでよく『プロ倫』と略されます)。

一言でいえば、人々はキリスト教を信じるように、お金を信奉するようになったという内容なのですが、今回のお話はこのヴェーバーが中心になります──というか、受け売りになります。




プロテスタンティズムの倫理

難しい本なので、もう少しだけ噛み砕いてその詳細に触れていきます。同じキリスト教でも「古いカトリック」と「新しいプロテスタント」では、労働観が異なるらしいのです。

宗教も、国や時代を変遷することで、少しずつその教義を変えていきます。農耕や牧畜が労働の中心だった頃の「カトリック教」では、労働においても休息や安息が大切にされていたとされます。それは耕せる畑、採れる収穫、食べられる量が決まっているからでしょう。足るを知り、無限に働く必要もなかったのです。

休息や安息、遊びが大切だったのですね。

ところがルネッサンス→宗教改革→産業革命を経て、新教の「プロテスタント」の時代になると、その変遷に併せて労働観も変わっていったようです。ルターにより神から与えられた「天職」という概念が確立し、カルバンにより倒錯した「禁欲的労働」が定着。終いには信仰心とは対極にあるような「利潤の追求」までもが、エートス(生活・心的・倫理的態度)と呼ばれる強迫観として形成されます。

このようにして西ヨーロッパで生まれた「宗教」と「経済」の融合が「資本主義の精神」だと分析されます。やがてそれは大西洋を渡り、アメリカ大陸では暴走し始めます。




資本主義の精神

これはフランクリン大統領をはじめとしたアメリカ的精神──として紹介されます。僕みたいな怠け者が聞くと、「うへぇ」と嫌な気分になってしまう精神です。こちらは身近な例に身辺化できます。 

例えば1日の労働で3万円を稼ぐサラリーマンがいるとします。週で15万円ですね。彼が週末の土日には趣味のキャンプに出かけるとします。その時にかかる費用をキャンプ場代、食料代、ガソリン代──もろもろ含めて1万円とします。すると「資本主義の精神」は、その1万円をもったいない、無駄だと見るのです。

「うへぇ」ですね。

しかも、厳密に言うと無駄になっているのはキャンプにかかった1万円だけではない。土日も働いていれば得られたはずの3万円+3万円の6万円。計7万円が無駄になっていると計算するのです。

「うへぇ」+「うへぇ」ですね。

いや、それだけではありません。もしその1万円を人に貸して利息を取ったり、株や先物取り引きに投資していたら、さらに幾ばくかのお金が儲かったかもしれないと考えるのです。そこまで利潤を追求するのが「資本主義の精神」なのです。

「うへぇ」+「うへぇ」+「うへぇ」ですね。




最後に引用

こちらをお読みのミニマリストキャンパーの方も、またはギアがどんどん増えていってしまう爆買いキャンパーの方も、これほどの資本主義精神を押し付けられると「うへぇ」となってしまうのではないかと察します。

逆に自然を愛し、自由を愛し、焚き火を愛するキャンパーの皆さんには、以下に引用する生き方の方が合っているんじゃないでしょうか。この文を書くにあたって調べたWikipediaで見つけた説明です。(こんな僕でも記憶だけを頼りに書いているだけでなく、正確を期すために調べてもいる事を示すために引用します)

それまでの人類の労働のあり方は、南欧のカトリック圏(非プロテスタント圏)に見られるように、日が昇ると働き始め、仲間とおしゃべりなどをしながら適当に働き、昼には長い昼食時間をとり、午後には昼寝や間食の時間をとり(シエスタ)、日が沈むと仕事を終えるというようなものであった。つまり、実質的な労働時間は短く、おおらかで人間的ではあるが、生産性の低いものであったのである。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。