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コラム
焚き火哲学*27
『SM論⑦三つのノモス』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

言い訳の前口上

いつも無理やり「哲学」を「キャンプ」や「焚き火」に準(なぞら)えてお送りしています当「焚き火哲学」──今回はその総集編になるでしょうか。こじつけの最たるものになるかもしれません。

これまで論じてきた秩序ある社会──「ノモス」の進化を3つの段階に分けてご紹介します。さすがに「無理があるなぁ」と思われてしまうかもしれませんが、そこのあたりは筆者の腕次第。お手柔らかにお願いしたいと思います。




おさらい

人とは何か。どんな生き物か。そして人はなぜ社会を形成するのか。社会とは何か。延(ひ)いては世界とは何か。世界は人にどのように認識されているのか──これが哲学の命題だとも言えます。

つまり、人とは何か。世界とは何か。

そのために近代以降の「分析哲学」「構造主義哲学」と呼ばれる新し目の知見を援用しながら筆者なりに考えてまいりました。その根幹にあるのは2つの対立概念──「カオス(混沌)」と「ノモス(秩序)」です。

人は他の生物とは違い、過剰な欲動に突き動かされている。過剰に他の生物を狩ったり、戦争で殺しあったり、自殺をしたり。果ては、生殖に結びつかない性衝動に突き動かされていたりもする──カオス。大脳が発達したおかげで、遺伝子の命令だけではその行動が定まらず、混沌・混乱を抱えている人間。

そのままでは社会を形成することもかなわず、自滅の道を進んでしまうことになるので、その欲動を抑え、他者に合わせ、規律に従う必要が生じます──それがノモス。社会に秩序と安定をもたらす為に、我慢するプログラムも人にはインストールされているのだというような考え方です。

そのカオスとノモスのあり方が狩猟時代、農耕時代(封建時代)、商業・工業時代(資本主義時代)へと、社会の変遷に併せて進化してきたとされています。順を追って考察していきましょう。




①時間的なノモス

社会を維持するためには個々が欲動を抑え、つまり我慢をして、他人に合わせ、規律に従わなくてはなりません。普段の生活では禁欲と清貧とが求められ、労働に勤(いそ)しみ、ノモスを安定させなくてはなりません。

ただそれだけでは息が詰まってしまうので、カオスを解放・発散させる必要が出てきます。それがお祭り。季節の移り変わりに合わせて暦をつくり、定期的な行事や祭事をその間に折り込んでいく。時にそれは、毎日の禁欲的な日常とは正反対、真逆の非日常となり、過度に放蕩的(飲めや食え)であったり、暴力的であったり、性的であったりする祭となってあらわれます。世界には珍祭、奇祭も多く見い出されます。

それを制度化していたのが宗教や習わし。伝統や習慣だったわけですが、それはある意味、時間的な区切りの上にカオスを配置していたのだとも言えるでしょう。たまに訪れる「非日常」のお祭りを楽しみに、「日常」の毎日を頑張るような感覚でしょうか。

無理矢理キャンプにこじつければ、毎日会社に行って働く日常を続けつつ、たまに行くことができる非日常のキャンプや焚き火を心待ちにしている状態です。




②平面的なノモス

狩猟社会や農耕社会の自給自足的な生活から、より効率の良い交換・経済が主体となる社会へと進化すると、ノモスとカオスのあり方も変わってきます。

ここ何回かに渡りご説明してきたお金の成り立ちと市場の機能。交換が加速してマーケットとなり、人と物とが目まぐるしく行き交う社会になると、村や町単位、または国単位での交易、貿易へと発展します。西洋ではそれが大航海時代とか、産業革命の時代と呼ばれる段階に到達しました。

世界史のお勉強のようですが、地球が丸いことがわかると欧州諸国は挙(こぞ)って海を渡り、未開の地の人々を制圧、支配していきます。いわゆる植民地支配、帝国主義の時代ですね。「植民地」と呼べばまだ穏やかですが、要は「奴隷の国」ですから、今では考えられないような略奪や殺戮、搾取などが横行していたそうです。

まさにカオス。ヨーロッパはカオス(混沌・混乱)を僻地に追いやることで自国内のノモス(安定・秩序)を保ってきたと分析されます。自分の国を規律正しく安定したノモスとさせるために、カオスは野蛮な植民地に押し付けていたイメージでしょうか。前段階からの発達で言うと、時間軸上のノモス-カオスの区分から、平面上の区分へと移り変わってきたということです。

再度、無理矢理キャンプや焚き火にこじつけてみましょう。何度か近くのキャンプ場に出かけ、慣れてくると、同じキャンプでは飽き足らなくなります。より困難な場所──遠方の僻地や高山へと足を伸ばす上級者スタイルに憧れます。ビギナーから一段上達した中級者のフェーズです。結果、日常と非日常の落差も大きくなります。




③動的なノモス

そんなキャンプ熱が昂じて、キャンプがいよいよ職業となると、日常と非日常が逆転します。アウトドアショップに勤めたり、趣味で始めたYou Tubeやインスタが本業となったり、果てはアウトドアライターになって、キャンプ場を開設したり──(まるで誰かさんのようですが)。

これは苦楽が逆転するのと同じ効果をもたらします。当人にはなかなかにツラい現状もあるようです。よく「好きなことを仕事にしてはいけない」とも言うじゃないですか。仕事でキャンプに行く──側(はた)からは羨ましいかぎりですが、それが毎日となると、嫌気(いやけ)が差すこともあるでしょうね。

その解決法は、前回の「平和なキャンプ」の回で提案した通り。Keep rollin’──やり続けるしかない、転がり続けるしかないのかもしれません。自転車操業のようにペダルを漕ぎ続けることで安定を図る──一種の無間地獄とも言えるかもしれません。

そしてこれが現代。資本主義の時代です。常に走り続け、前進することで平衡を保つ。止まればバランスを崩して倒れてしまう、動的なノモスの時代に僕たちは生きているのです。




遊びが労働?

たしかに田舎の牧歌的な時間と比べれば、都会の人々は目まぐるしく、常にあくせくと動いていますよね。寸暇を惜しむように右往左往しています。しかし、さらに時代を遡れば、狩猟時代の人類は毎日3時間〜5時間ほどしか働いていなかった──という話も有名ですよね。羨ましい限りです。

しかもその労働の中身は野外活動。まさにキャンプに近いものだったとも言えるでしょう。釣りをして、火を起こし、調理する──この行程を労働とするならば、まさに僕たちにとっての遊びが労働だったということになるのです。さらに羨ましい限りです。

ですが、それはキャンプを職業にしている人を羨ましがるのと同じかも。原始人にとっては、釣りや焚き火も、やりたくはないお仕事だったのかもしれません。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。