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コラム
焚き火哲学*28
『フィッシュジーン』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

科学のお話になります

自然と人工の違い。動物と人間の違い。これも「哲学」の重要なテーマのひとつです。古来から哲学者たちは、ピュシス(自然界)とノモス(人間社会)の違いを観察し、様々に論じてきました。

僕たちキャンパーも、自然(ピュシス)と都会(ノモス)の狭間に生きる人種です。あるいは自然と都会を往来しながら、両者を見つめる思想家です。ここ数回、ノモスの仕組みについてのお話が続きましたので、ここで改めてピュシスを取り上げてみたいと思います。

そのきっかけとさせて頂くのは、リチャード・ドーキンス。代表作『利己的な遺伝子』で一世を風靡した生物学者さん。ご存知の方もいらっしゃるでしょう。哲学も、このように科学の知見を援用することもあるのです。

いえ、厳密には逆ですね。

高名な数学者、物理学者、精神学者、脳科学者、コンピューター学者たちが、そのまま哲学者ともなるのがパターンです。「哲学」というとなんとなく「科学」の対極にある非現実的な思想である──というイメージを持つ方もいらっしゃいますが、それは間違い。どの時代も、常に最先端の科学が哲学を創ってきたのです。

なんといっても哲学は万学の祖と言われますからね。




遺伝子の乗り物(genetic vehicle)

2004年、イギリスの雑誌で「知識人100人」のトップに輝いたドーキンスが論じたのは、「生物は遺伝子が乗る乗り物にすぎない」という見識です。昆虫、魚類、鳥類、哺乳類と──さまざまな種類、大きさ、色、形態を持つ生物ですが、そのすべてが遺伝子の生存のために進化してきたのだとするダーウィンの系列にあたります。

遺伝子が時おりコピーミスを起こし、親とは異なった形質の子どもが生まれる。厳しい生存競争の中で自然淘汰を繰り返し、より環境と変化に適応した個体が子孫を残す。

これは見方を変えれば、遺伝子が次々と乗り物(生物の体)を乗り換えて、何万年もの時を旅しているようなものだ──とする考え方です。

さらには、生物の体の特徴(形態)だけでなく、その行動をも遺伝子は決定しています。赤ちゃんが教わることなくおっぱいを飲んだり、子ガモたちがお母さんのあとにゾロゾロついていったり──いわゆる「本能」です。後天的な「学習行動」に対して先天的な「本能的行動」と区分されます。

ここら辺までは、学校で習う知識。すんなりと理解できる既知の事実だと思います。




利己的な遺伝子(selfish gene)

しかしドーキンスは「動物行動学」をメインフィールドにする生物学者でしたので、単純な観察では終わりません。さらに複雑で、社会的な行動をも遺伝子の仕業だと看破していきます。

例えば、ミツバチが群れのために我が身を犠牲にして戦う本能的行動。これは単純な自然淘汰説では説明不能だったんだそうです。そのハチが必死に仲間を守ろうと戦っても、自分自身が死んでしまったら、遺伝子はその時点で途切れてしまいます。子孫を残すことは不可能です。遺伝子が乗る乗り物(genetic vehicle)としては失格です。

しかし彼はこの自己犠牲、利他的な行動を、やはり遺伝子の利己的な特質によるものだと解き明かしました。利他ではなく利己。仲間のために自らの命を落とすことは、そのハチ本人にとっては何ら良いことはありません。損なだけです。しかし遺伝子の方から見たらやっぱり得になっているのだと──。

この不可解な学説を説明するために、ドーキンスは僕のような文系人間には難しい数式を援用しました。学生時代の教科書に載っていた、エンドウ豆やショウジョウバエの系統図のような図を用いたり、ESS(evolutionarily stable strategy)と呼ばれるゲーム理論を用いたり──。でも、こういう難しそうなところは、読み飛ばすに限りますね。

結論としては「遺伝子の乗り物」という概念に次いで、「利己的な遺伝子」という概念も提唱されました。




セルフィッシュ・ジーン

シンプルな本能的行動しかつかさどることはないと思われていた遺伝子が、利他的であったり、社会的であったり、他の個体との相互作用で複雑に絡み合うさまが解明されていくにつれ、究極は僕たち人間もかなりの部分が遺伝子の生存戦略に操られているのではないか──という憶測も飛び交うようになりました。

この「利己的な遺伝子」は日本でも一時期ブームになり、『不機嫌なジーン』という恋愛ドラマまで放映されました。竹内結子さんが動物行動学者の役を演じられてたので、ご存知の方も多いかもしれません。

「セルフィッシュ・ジーン」──カタカナの方が通りが良かったようで、「ジーン」という言葉もその頃に浸透しました。それに伴い「男が浮気をするのは遺伝子の戦略である」とか「嫁と姑の諍いは遺伝子の戦いである」など、飛躍した理論もよく目にするようになりました。

当時は一種の「恋愛」指南として、心理学ゲームや星占いのように消費されていた感じでした。占いでも、ジーンでも、誰かに何かを決めてもらえると、安堵がもたらされますからね。特に悩みの種が多い「恋愛」は。──分からなくもないブームでした。




自由意志を求めて

しかし、自由を愛するキャンパーとしては、遺伝子なんかの命令に従うのはまっぴらごめんです。自分の意思で、自分がやりたい事を決めて、自由に行動したいものです。

そもそも堅苦しい社会(ノモス)の規律や仕事から離れて、のびのびと自然を満喫したいのがキャンパーです。かといって自然(ピュシス)からの命令に従うのは違います。「利己的遺伝子(selfish gene)」の「乗り物(genetic vehicle)」になんかなりたくありません。

でも、大丈夫です。僕たちには自分の意思があります。哲学界や思想界で呼ぶところの「自由意志」を持っています。これが動物たちとの大きな違いです。動物はほとんどの行動が本能、遺伝子の命令によって決定されています。僕たち人間は違います。

人類が大脳を特に発達させたことによって得ることができた自由意志。めいっぱい使って、自由を謳歌したいですね。次回に続きます。














Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。