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コラム
焚き火哲学*31
『SM論⑪内在化するパノプティコン』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

スレイビッシュ・ミーム

第3部『SM論』をここまで10章に渡りお送りしてきました。最後の第10章で、タイトルにある謎の頭文字「SM」が、「スレイビッシュ・ミーム(Slavish Meme)」の略であることを明かしました。リチャード・ドーキンスの「セルフィッシュ・ジーン(利己的遺伝子)」に対する僕の造語です。スレイビッシュ・ミームで「隷属的情報子」といった意味になります。

「隷属的情報子」──人間とはわがままで利己的な「性悪説的存在」でもなく、慈悲深く利他的な「性善的存在」でもない、生まれながらにしての奴隷である。自ら進んで宗教や国家などに隷属する存在なのであるとの主張です。

我ながらちょっと怖い発想ですね。

でも大袈裟に言えば、国家戦争も宗教戦争もその「隷属化」によって引き起こされるのです。特攻隊や魔女狩りなどの理不尽な現象も、この隷属的遺伝子の成せる技です。有史以来、もっとも多くの人間を殺してきたのがこの「スレイビッシュ・ミーム(隷属的情報子)」だといっても過言ではありません。




日常における隷属化

かなり仰々しく物騒な話から始まってしまいましたが、この現象は僕たちの日常生活の中にもあちこちに散見されます。

周りの人と同じような服を着たり、行きたくもない飲み会に付き合ったり、皆の会話に同意している訳でもないのに「うんうん」と頷いてしまったり──周囲の行動に合わせてしまう人間の気質もこの隷属的遺伝子によるものです。

無理矢理キャンプや焚き火になぞらえて言えば、いくら誰も見ていない自然の中でもルールやマナーは最低限守りますよね。グループキャンプになれば人間関係も生じてきますし、キャンプを仕事にすれば責任もついてまわります。マッチやライターで着火すれば良いのに、「バドニングして、フェザースティックを削って、ファイヤースターター(火打ち石)で着火する」なんて面倒臭い作法をしてしまうのもそう。すべてはスレイビッシュ・ミームのせいかもしれません。

最近は日本語でも使われるようになった『同調圧力』という言葉もその現象だと言えます。英語では『ピア・プレッシャー(peer pressure)』という表現で古くから存在している言葉ですから、広く認知されてきた現象です。

その現象の基となるのが「スレイビッシュ・ミーム(隷属的情報子)」──現象に名前があっても、その原理、仕組みに名前が付いていなかったので、僕が新しく造語を用意したということになります。




ベンサムのパノプティコン

第3部では引き続いて、この原理や仕組みから生まれる様々な現象を追いかけていくつもりです。その第1回目にしてその代表となるのがタイトルにもなっている「パノプティコン(Panopticon)」という現象です。

この現象をご理解いただくためには二段階の説明が必要になるかと思います。

まずこの言葉を編み出し、発案したのは「ジェレミー・ベンサム」という19世紀の経済学者。「功利主義」という思想で有名。世界史の授業には必ず登場する人物なので、名前くらいはご存知の方も多いでしょう。

功利主義というと何となく功利的な、つまりは計算高くズル賢い行動を指し示す主義のように思われがちですが、それは違います。

「功利」というのは、合理的にみんなの利益につながるように社会を構築していきましょう──とする主義で、「最大多数個人の最大幸福(the greatest happiness of the greatest number)」というキャッチフレーズで知られます。封建主義が終わって、貴族や王様に主権があった時代から、民衆に主権が移った世界。国民全体の幸福は経済学的に計算可能だと提唱し、その幸福を最大化するのが道徳的であるとする倫理・哲学につながる主義になります。

その中でこの「パノプティコン」というのは、ちょっと違和感を拭い得ない発案になりますが、「円形の刑務所施設」を意味する言葉になります。中央に高い監視塔を設置し、檻房をぐるっと周囲に配置する。すると看守は真ん中からすべての囚人を監視することができて効率的だ──という設計です。

ベンサムの「社会の幸福の極大化を見込むには、犯罪者や貧困者層の幸福を底上げすることが肝要である」という考え方によるものなのですが、やっぱりちょっと「?」を感じてしまいますよね。




フーコーのパノプティコン

このベンサムの考案によるパノプティコンを、自らの思想に援用したのが「ミシェル・フーコー」、20世紀を代表する構造主義哲学者の一人です。

彼は実際の建造物であるベンサムの「パノプティコン」を、人間の精神構造を説明する一種の比喩としました。看守が円の中心にある塔から囚人たちを見下ろすパノプティコンでは、確かに360°ぐるっと全員を見張ることが可能である。しかし下にいる囚人たちからすれば、見上げても看守の姿は見えない。看守が本当にいるのか、いないのかは分からない。つまりは究極のところ、看守が不在でも囚人たちが逃亡することはない。監視は可能なのであると──。

ここまでは、実際の建物の説明になりますね。

フーコーはこの考察をさらに続け、このパノプティコンが僕たちの意識に内在化していると説きます。看守がいなくても逃亡することは叶わず、規律正しい刑務所の生活を送らなくてはいけない。誰が見ている訳でもないのに、看守が自らの意識に内面化してしまっているので、僕たちはそれから逃げることはできない。「権力の自動化」と言われるこのシステムが社会を作り上げているのだと。そしてそれは「学校」という規律と訓練の場から始まっているのだと。こうして監獄のような社会が作られるのだと。その著書のタイトルには『監獄の誕生』という名が付けられています。

建物の説明から、人間と社会の説明へと昇華した訳ですね。




内面化する看守

看守が自分の意識の中に住み着いてしまうこの現象を「パノプティコン」と呼び、その原因を学校教育に求める──確かに頷ける所の多い説明でした。しかし僕が注目したいのは、そのさらなる原因が人間の中に眠っているのではないかという考えです。

別に学校で訓練を受けることがなくても、人にはパノプティコンが眠っているのではないか。人は自ら欲して監獄に幽閉されようとするのではないか。権力者を自らの中に住まわせ、それに隷属化してしまうのではないか。人はすすんで「奴隷になりたい」と望んでいるのではないか──それがスレイビッシュ・ミームという概念なのです。

「そんなバカな!?」と否定される方もいらっしゃるとは思いますが、そんなあなたでも、完ソロキャンプの時に、誰も見てないからといってマナーを破ったりはしないでしょう?

そういうものです。自分の中の看守が見ているのです。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。