独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
せかせかキャンプ
告白します。僕はじっとしていられないタイプです。キャンプの時など始終せかせかしています。「焚き火哲学」などという連載を受け持たせては頂いてますが、燃える火を眺めながら「時を忘れる」なんて芸当はできません。チェアリングなんてもってのほか。ただ座って、景色を愛でるなんて風流な営みには無縁です。
あなたはいかがでしょう?
キャンプに行くと、座って飲んでばかりいて怒られる──なんて人もいらっしゃるでしょう。羨ましいかぎりです。設営も火起こしも、調理すらもそっちのけで、自分の世界に浸り切る──そんな人に僕もなれたら良いなー、とは思います。
じっと座ってゆっくり落ち着こうとは思ってるんですよ。同席者と語らい、鳥の声に耳を傾け、深く瞑想に耽る──。でも、「あそこのペグが抜けかかってるな〜」とか、「タープが緩んでるな〜」とか、いろいろ気になっちゃうんです。キャンプそのものに集中できません。
いや、集中しちゃうのがいけないんですね。キャンプでは「ぼーっ」としなくてはいけないのです。「慢心」「放心」しなくてはならないのです。それが難しい! 修行が足りません!!
この駆り立てられるような心理も、僕自身が前回お話した「パノプティコン」を心に内在化させているからでしょう。
パノプティコン
繰り返しの説明を避けたいので手短に言えば、人は自ら進んでパノプティコン(監獄)に入り、心の中に看守を住まわせるようになる──というミシェル・フーコーのとなえた架空の概念のことです。何かに隷属化し、監視され続けている心理状態。人はこの監獄を自らつくり出すというのです。
これも告白しますと、正直僕は、この隷属化に関しては自由な方の人間だと自負しています。権力者に媚びへつらいたくなる気持ちもありませんし、社会の常識やルールにもとらわれないタイプです。若い時からこのパノプティコンを意識し、抗ってきたので、一般的な社会人の方々と比べて帰属意識に欠けている気がしますし、同調圧力にも屈さない方だと自認しています。
ところが、キャンプのような余暇でもせかせかと気が急いでしまうこのタチは、形を変えたパノプティコンなのではないかと思っています。現代人に特有の心理状態、新しいパノプティコンなのではないかと自己分析しています。
クラインの壷
封建社会では「権力者」と「庶民」──「支配する側」と「支配される側」だった静的な支配構造が、動的な流れとなって連続化するようになったとするのがフランスのジル・ドゥルーズによる新しいパノプティコンです。
封建時代から資本主義社会に移り、僕たちは毎日モノを生産し、消費していく「消費型社会」と呼ばれる世界に生きるようになりました。その中では次々と新しい商品が開発され、生産ラインに乗り、出荷され、消費されていく──無限に繰り返すこのサイクル。カオス(混乱)とノモス(秩序)がピラミッド型の権力構造により統制されていた時代から、自転車操業のように、漕ぎ続けることで安定をはかる時代へと突入したというのです。
この止まることなく、繰り返す流れは「メビウスの輪」や「クラインの壷」に喩えられます。表(おもて)を辿っているといつのまにか裏にまわり、裏を辿っているといつの間にか表に戻っている不思議な循環。いつの間にか始まりもなく、終わりもなくなっているという無限のループ。僕たちは延々と続く消費社会に急き立てられ、終わりのない競争を生きていく。
ドゥルーズの言葉を借りれば、脱領土化された社会が生産の流れ、労働者の流れ、貨幣の流れとなって、常に差異を生みだしながら反復していく──非常に難しい概念なのですが、止まってしまえば倒れてしまう自転車のようなものだとも言えるでしょう。
教室の喩え
肝心なのは、僕らを急き立てる監督者が、パノプティコンと同様に僕たちの心に内在化されていることです。これを『構造と力』の浅田彰氏は「教室の喩え」にして説明してくれています。次のような喩え話です。
自習中の教室を思い浮かべてみてください。自習中といっても、正面の教壇では先生が監督をしています。なかなかサボれません。先生の目を盗んだり、先生がよそ見をしている時じゃないと、早弁をしたりスマホをいじったり──サボることは許されません。
ところが浅田氏は、先生が教室の後ろに立って、背後から監督した方がサボれなくなると指摘します。「後ろを振り返らずに自習を続けなさい」と命令することで、生徒たちの心の中には、後ろで立って監督している先生の姿が内在化します。先生がそっと教室から出て行って、誰も監督していない状態になっても、生徒たちはサボらず自習を続けると。後ろを振り向くことが出来ないので、先生の目を盗むことも、よそ見のチャンスをうかがうこともできません。
同様に、資本主義となった現代では、内在化した先生が僕たちを駆動させ続けるのです。
マラソンの喩え
確かにその通りですね。僕がキャンプの間でも動き回ってしまうのは、誰から命令された訳でもなく、誰に監視されている訳でもなく心の声に突き動かされてのことです。
浅田彰氏の素晴らしい喩えを、もう少し僕流にアレンジさせて頂ければ、「教室」というよりも「マラソン」に近い感覚です。
厳しい運動部でのロードワーク、マラソンの最中に顧問の先生はよく自転車に乗って部員たちを牽引したりします。遅れないようについていくのもなかなかツラい走りになりますが、それよりもっとツラいのは後ろから追い立てられる構図ではないでしょうか。教室の時と同様に「後ろを見るなっ!!」とドヤされて、鬼顧問が自転車で追いかけてきたら、サボるどころかペースを落とすことさえままなりません。
これこそドゥルーズが説いた動的な流体に近いイメージでしょう。そんな心象を抱いてキャンプをする僕こそが、極めて現代的な奴隷なのかもしれません。