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コラム
焚き火哲学*34
『SM論⑭孤高のソロキャンプ』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

偉大なるニーチェ

この稿をお読みの方の中には、ソロキャンプを嗜まれる方も多くいらっしゃるでしょう。独り焚き火に向かい、炎の中にご自分の思索を巡らせることがお好きな御仁もいらっしゃると思います。

ソロキャンプ──ある意味、孤高で崇高とも言えるこの趣味には、世俗に背を向けたような、厭世的なムードも漂います。

同様に、哲学者の中にも周囲から理解されず、孤独に生きた偉人が多数います。ニーチェもその一人と言って良いでしょう。フリードリッヒ・ニーチェ──あまりにも偉大な哲学者なので、前回に引き続き2章にわたってお話を続けていくことになります。

なぜそれほどまでに「偉大」なのか。実は僕にはそれが長い間分かりませんでした。よく聞く名前です。哲学者の中でも3本の指に入るくらい有名です。様々な本を読んでいてもよく登場し、引用されたりしています。

しかし若い頃の僕は、そのあまりにも有名な2つの言葉「神は死んだ」「ルサンチマン」をもってして、「自分には関係ないや」──と遠ざけていたのです。どちらも神にまつわる言葉、キリスト教についての言葉ですから、信者でもない僕にとっては、無縁な思想家だと勘違いしていたのです。

ですからその偉大さを知り、ファンになったのは、ずっと後になってからのことです。




PUNKS NOT DEAD

しかもニーチェという人物は、他の哲学を学んでいてもあまり関連性や繋がりが見出せない人です。哲学を紐解く際には、さまざまな系譜に沿って読書を進めるものですが、「誰々に師事した」とか「誰々の思想を引き継いだ」──というような系統に属することがないのです。一応、実存主義哲学者の一人に数えられ、後世の思想家に多大な影響を与えはしましたが、彼自身は独立独歩、孤立無援、孤高の人物だったようです。

それどころか早々に大学を辞職し、在野の哲学者として自らの思想を紡ぎ、不慮の事故と病に悩まされ、家族とも疎遠。友人や知人も少なく、存命中は本が売れることも注目されることもありませんでした。唯一、音楽だけが愛すべき対象、彼の救いであり──そしてなんと、無国籍者だったそうです。

前章で「PUNKな哲学者」と言及したことがありましたが、僕は彼に相当ラディカルなイメージを見い出しています。言葉の端々にはかなり反道徳的で、反社会的な主張も散見されます。

前章で「背後世界」や「大いなる正午」を持ち出した通り、既成概念をことごとく打ち破り、破壊したからだけではありません。生き方そのものがPUNK ROCKERのそれだったのではないかと想像しています。




ルサンチマン

それでも僕は彼を長らくスルーしていたのです。僕の興味は実存主義vs構造主義の対立など、彼以降の哲学にありました。ルサンチマン──「怨恨」「遺恨」「嫉妬」などと訳されるこの言葉にも何度も出くわしましたが、決まって「キリスト教的道徳心のこと」というような解説が付されるので、無宗教な自分には関係ない概念だと思い込んでいました。

ところが何かの本を読んでいる時(タイトルも内容も忘れましたが)、ルサンチマンとはキリスト教信者の心理だけに限定されず、あらゆる民族、あらゆる社会にも見い出される心理であり、アウシュビッツの中でもそれはあったのだ──とする記述に出会ったのです。

ナチスドイツによるユダヤ人強制収容と大量虐殺。その代表的な施設として知られるアウシュビッツ収容所。その中では、同じ奴隷であるユダヤ人同士の間に階級が生まれ、上位の奴隷が下位の奴隷を監視するというシステムが構築されていたということです。

当然、差別やいじめが発生し、密告や優遇もあったのだと説明されていました。そしてその中で生じるような恨みや嫉みがルサンチマンなのだと──。その説明の詳細も今となってはよく思い出せないのですが、それを読んでいて僕が思ったのは「なんだ、それってスネ夫マインドじゃん!」という感想でした。




スネ夫マインド

ミュージシャンのスネオヘアーさんとは何の関係もありません。ジャイアンには媚び諂(へつら)い、のび太には威張り散らして自慢するあのスネ夫です。

骨川スネ夫──拗ね夫。あらためて考えてみると、もう名前からしてルサンチマンそのもの。あの強者に弱く、弱者に強いイメージをもってして、初めてその概念がしっくり僕の腑に落ちたのです。

そこからニーチェに関する書物を一つ二つと紐解いていくと、腑に落ちることばかり。前回の「背後世界」にしても「大いなる正午」にしても至極、納得。「奴隷道徳」や「畜群」「末人(まつじん)」などさらに過激な言葉が登場すると、その時すでに僕の中で確立しつつあったこの「Slavish Meme(隷属的情報子)論」が補完され、確信へと昇華しました。

やはりニーチェは偉大でした。

「人は生まれながらにして罪深き存在である」として原罪を背負わせるキリスト教だけではなかったのです。すべての民族、すべての人類が奴隷道徳に冒された畜群だったのです。そして、果ては末人*となるのです。

*末人 : 神が死んだ後の世界。夢も希望も失って生きる大多数の中流市民。ニヒリズムが蔓延し、安楽ばかりを求める。疑うことを罪と考え、摩擦を起こさないように生きる。




孤高であること

今回はニーチェそのものというよりも、僕の体験談が中心の話になってしまいましたが、かなり過激でPUNKな思想家であったことはご理解いただけたかと思います。

実は最後にもう一つ打ち明けますと、「箴言の人」とも呼ばれる彼を、ただそれだけの理由で忌避していた時期もありました。彼の思想は哲学じゃないんじゃないかと長く思い込んでいました。

「孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれる──フリードリッヒ・ニーチェ」

ソロキャンプにも通じるところのある箴言、名言、アフォリズムですが、分析哲学のような精緻な学問とは縁遠い気がしていたのです。これは一見、学問の哲学というより「人生哲学」にありがちなお説教です。

しかし彼の「超人思想」「力への意志」「永劫回帰」などの考え方に触れると、この同じ言葉も違って響きます。

スレイビッシュミーム(隷属的情報子)に突き動かされ、畜群、末人と堕してしまう運命に抗うにはどう生きれば良いのか。ニーチェ先生には後半でもう一度ご登場願おうと予定しています。それまでは、引き続きソロキャンプを愉しみながらお待ちください。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。