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コラム
焚き火哲学*35
『SM論⑮ダスマンの広がり』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

孤独を味わう

孤高のソロキャンプを通じて、ルサンチマンを克服しよう! 世俗から離れ、自然の中でひとり火に向かい、思索を巡らしながら哲学しよう!! ──そんな趣旨でお送りしている「焚き火哲学」ですが、前回ご紹介したこの言葉。

「孤独を味わうことで、人は自分に厳しく、他人に優しくなれる。いずれにせよ、人格が磨かれる──フリードリッヒ・ニーチェ」

まさしくソロキャンプと焚き火の効用を具現化しているかのようです。

自らルールや規則の奴隷になり、スレイビッシュ・ミーム(隷属化した情報子)に突き動かされている人間は、一見、自分に厳しくしているようにも感じられるものです。が、僕はなんとなく違和感を感じています。しかもそれは他人に優しいかというと──決してそうとは言い切れない。何らかの二面性、矛盾を抱えているようにも感じます。

今回はそんな人間の心理を、マルティン・ハイデガーの考えを借りて解き明かしていきたいと思います。




恐怖と不安

「存在と時間」という超難解な(しかも未完の)著作で有名なハイデガーですが、若かりし頃の僕はその全体の主張は難しすぎて掴めず、代わりにそのほんの一部分に注目しました。「恐怖」と「不安」の違いを分析した説明です。

日常感覚的な言葉の用法からすれば、恐怖と不安の間にさほどの違いはありません。今回もソロキャンプを例にして説明すれば、多少なりとも恐怖や不安は付きものだと言えます。特にこのサイト本来の読者である女子キャンパーの皆さんにとっては、なおさらではないでしょうか。

しかしハイデガーによればその2つは別のもの。「対象を持つものが恐怖」であり、「対象を持たないものが不安」であると、違った感情として分類されます。これだけでは何を言っているかちょっと分かりませんが、これをソロキャンプになぞらえて言えば──。

ソロキャンプ時の恐怖──熊が怖い、痴漢が怖いなど
ソロキャンプ時の不安──事件が起きないか不安、無事に帰れるか不安など

うーん、あまり上手い例になってないかな。とにかく対象のはっきりしている恐怖は予防や対処の方法がある。熊鈴を持ったり、防犯ブザーを持ったり──と。

いっぽう不安は、何が対象か分からないので対処のしようがありません。キャンプよりもっと長期的な視野、人生レベルで考えれば、急に財産を失って生活ができなくなったり、何かの事故や病気に見舞われて生きていけなくなったり──究極それは死への不安へと集約されます。




逆説的な不安

考えるに、「不安」というものは一種、「恐怖」の対象がない時に生まれるのかもしれません。逆に、今の生活が快適で安定していればいるほど不安は募るのかもしれません。「この生活を失ったらどうしよう?」──という形で。

世の中、科学や社会制度が発達したおかげで、だいぶ便利で快適に暮らせるようになりました。歴史の授業で習うような、飢餓や奴隷制度に苦しむ人は見当たりません。それどころか、幼い頃から衣食住の保証された安全、快適な暮らしを与えられている人がほとんどです。

自分では何の苦労も、努力もなく安定した生活が手に入ってしまっているのですから、逆に恐れるのはその暮らしを失うことです。

すると原理的に人は、幸せになればなるほど、満たされれば満たされるほど「不安」を大きくするのかもしれません。何の苦労もなくその生活が与えられていれば、また何の原因も根拠もなく、それを失わないとも限らない──意識に上らずとも、そんな漠然とした不安が、現代人である僕たちにはまとわりついてるように思えます。




必要のない我慢

対象のはっきりしている「恐怖」なら良いんです。その対象を取り除くために、努力したり対策を講じることができますから。しかし「不安」に対してはやりようがありません。

すると人はどのような行動に出るのか。対象がないのに努力したり、苦労したりし始めるのです。矛盾した、一種の倒錯したような行動に出始めます。

意味のない努力であっても、合理性のない苦労であっても、「自分はこれだけ頑張ってるんだから、最悪なことにはならないはすだ」と、不安を払拭するためだけに我慢をしてしまう。根拠はないのに、自分がこれだけ苦しんでいるんだから、今の安定した生活は守られるはずだと、ますますのめり込む。

自分を追い詰めてまでブラック企業で働いてしまうような行動には、このような心理が働いているはずです。仕事だったり、受験勉強だったり、人間関係だったり──多くの現代人が精神を消耗させながら毎日を生きています。




望まれる理不尽

いえ、それだけではありません。人は自ら好んで、苦しい状況に自分を追い込みもします。際限なく膨張し、解決法もない「不安」から逃れるために、自傷行為のような隷属化に走るのです。

それを前回のルサンチマン──ニーチェが説いたスネ夫のようなマインドをもってして説明しようとすると、職場でよくある「上司への愚痴」なんかがその典型例にあたるでしょう。

カゲでさんざん愚痴を叩いていても、当人たちは決してその不満を上司に直接訴えようとはしません。どんな理不尽があったとしても、それを解決しようとはしないのです。逆です。理不尽はあった方が良いのです。自分たちの不遇を嘆き、それを同僚たちと擦り合わせ、それでも苦しんで努力しているその頑張りこそが、唯一の救いになるのです。解決しようのない不安から、自分を救ってくれる唯一の手立てになるのです。

若い時から受験のためのマス教育で育てられ、サラリーマンとして滅私奉公を続け、企業や国が老後の社会保障まで面倒を見てくれる──安心・安定の生活を一生続けることを良しとする社会では、その内部が腐敗し、不条理なこともまま起こります。企業や政治の不正や汚職などはその発露です。

自分たちもコンプライアンス違反は悪いことだと分かっているのです。露見すれば問題となることも知っているのです。しかしその理不尽こそ、自分たちが望んだものです。謝罪会見の後などに私的コメントとして「一生身を尽くして働いてきたのに、こんな結末になるとは──」と漏らすいい歳の大人もいます。この奴隷道徳の始末の悪さを痛感せずにはいられません。




ダス・マン

今回は(も?)勢い余って、ハイデガーの思想からはだいぶ離れて暴走してしまいました。しかし、彼はこれに似た奴隷道徳を「ダス・マン(世人)」と呼んで警鐘を鳴らしています。

不安から逃れるために、他人と行動を同じにする。思考停止して、世間一般の価値観に埋没する。ピアプレッシャー、同調圧力、集団心理、帰属意識こそが危険なのかもしれません。世間に不安が蔓延するにつれ、ダス・マン、世人も広がっていくのかもしれません。

せっかくのソロキャンパー。そんな趨勢は馬耳東風として、独りで焚き火を愉しんでいる時にこそ、今後も考えていくことにしましょう。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。