ホーム画面に追加してね>>
コラム
焚き火哲学*39
『SM論⑲オイディプスと言葉』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

ひとり言キャンプ

ソロキャンプ──ひとりでテントを設営し、ひとりで焚き火にあたる時、あなたはラジオをつけたり音楽を聴いたりしていますか? そして独り言。ぶつぶつ何かを呟いたりしていますか?

せっかくの景色。せっかくの大自然の中に身を置いているわけですから、本来なら僕も静寂の中でキャンプを楽しみたくはあります。風の音や鳥の声に耳を傾けながら、清々しい空気を満喫し──。でもダメなんですよね。何か音がしないと退屈してしまう。寂しくなっちゃう。

ついつい人工の音を鳴らして空気を汚してしまいます。さすがに独り言を口にすることはありませんが、歌でもラジオでも、人の声がしていないと間が持たないのです。




ジャック・ラカン

今回取り上げるのはジャック・ラカン。フランスの哲学者であり、精神科学者でもある人です。ここのところ、パラノとかスキゾとか精神科学寄りの「焚き火哲学」が続いていました。一応、その一環です。

そしてラカンと来たらテーマは「言葉」。彼によれば、人は言葉を喋るようになる時点でもう、隷属化が始まっているとされます。自ら進んで奴隷になってしまうのです。SM論──あっちのSMではなく「スレイビッシュ・ミーム」の略。日本語にすれば「隷属化する情報子」という──僕の造語です。

人はミーム、情報子によって奴隷となってしまうのです。そしてミーム自体は言葉でできています。通算19回を数える連載を経て、いよいよ本稿も大詰めを迎えようとしています。




現実界・想像界・象徴界

フロイトの影響を受けながら、精神科学者であるラカンが対象としたのは、発達段階における幼児の精神のあり方です。これまた非常に難解で、分かりにくい理論なのですが、いつものように噛み砕いてまとめてみましょう。

*現実界
赤ちゃんが生まれてすぐ。泣いたり、おっぱい飲んだり、うんちをしたり、おしっこをしたりする頃。目の前の世界が直結している頃(と僕は捉えています)。本当は自他未可分とか、鏡像段階などと細かく分析されていますが、今回は省略!

*想像界
ちょっと成長して、あれ欲しい、これ欲しいとダダをこね始める頃。例えばアメが欲しいって思うのなら、それは頭の中にアメが想像できているということ。ラカンでは赤ちゃんがおっぱいを求めて泣いたりするぐらいから始まっているそう。

*象徴界
言葉をしゃべり始める頃。言葉=記号=シンボル=象徴……という訳ですね。子どもが「ママー!」と呼んだり、それ以前に「マー」と声を発し始める頃から、この「象徴界」に足を踏み入れているとされます。




オイディプス王の神話

ラカンはこの「言葉」を習得する段階を「父の名」とか「去勢」という用語で説明します。哲学らしい、意味深げな言葉ですが、この思想にはギリシャ神話が背景にあります。オイディプス王の神話。エディプスとも表記されますから、エディプスコンプレックスなどのフロイトの用語で聞き覚えがある方もいらっしゃるでしょう。

その神話を引用してみます。

テーバイ国のオイディプス王は、いろいろと数奇な巡り合わせから、自分の実の父・ライオス王をそれとは知らずに三叉路で殺害し、さらに自分の母親イオカステとうっかり結婚して子をもうけてしまうはめになる。またいろいろとあって、ついに真実を知った彼は、やはり事実を知って自害した母親の金のブローチで両眼を突いて盲目となり、流浪の旅に出る。

精神科医である斎藤環先生による解説です。漫画や映画好きのたいへん楽しい先生で、読みやすい精神科学の著作を多数書かれています。この引用文もわかりやすくまとめられていて、さすがです。

息子が母親に異性としての愛情を抱き、父親に嫉妬心を抱く──父を殺し母と結婚したこの神話からエディプスコンプレックスという概念が生まれました。今はあまり聞かない言葉ですが「マザコン」なんて言葉に変換されていた時代もありました。それがフロイトからの援用として正確かどうかはともかくとして。




「父の名」と「去勢」

「想像界」から「象徴界」への成長──斎藤環さんはその時期を5歳くらいだと想定されています。言葉を覚え始める時だと言いますから、もっと早く始まるのではないかとも思いますが、次第に次第に「父の名」が刻印され「去勢」されていくのだそうです。

神話的には、オイディプス王が母へ向ける愛情が想像界にある段階であり、それを父により禁じられる構図が象徴界、去勢となるのでしょう。つまり言葉を覚えることによって、自由奔放に欲望を解放できる時期が終わり、大人の社会へと入っていくイメージ。その入り口になるのが言語の習得なのだと僕は捉えています。

確かに、日本語、英語、ドイツ語、フランス語、ヒンディー語、タガログ語──どの言語であっても言語は僕たちの思考を限定するものです。

一例を挙げれば「美しい」という形容詞。僕たちキャンパーが出会う様々な自然の美しさ。眩しいほどの白雪に覆われた連峰、蝶が舞う色とりどりの花畑、青く透き通り輝く海、紅葉に染まる里山──それらすべてを「美しい」のひと言で済ませてしまったら、言葉にした段階で多くのものが失われてしまっている気がします。




座禅キャンプ

言葉も言語も、僕たちの思考を限定し、狭めるものかもしれません。日本語、英語──使う言語によって、思考の枠組みや方向性が決定付けられ、自由が奪われるものなのかもしれません。言葉を使う象徴界に入った時点で、僕たちは「父の名」に従い「去勢」されるのかもしれません。

スレイヴィッシュ・ミーム──ミーム(情報子)などと指摘する以前に、情報そのものが言語、象徴、父の名でできています。そして考えてみれば、僕たちは言葉を使わずにして思考することは出来ません。

ソロキャンプを嗜んでいる時、ひとり焚き火にあたっている時、ラジオや音楽を流していなくても、ひとり言をぶつぶつ呟いたりしなくても、言葉は僕たちと共にあります。何かを思い、何かを考えているだけで、頭の中では何かの言葉が飛び交っています。その時点で去勢された言葉の奴隷、本当の自由は望めないのかもしれません。

あとは無心。雑念から開放された座禅のようなキャンプしか残されていないのですから。











Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。