独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
倒錯した世界
いきなりタイトルはカエルです。そしてビールです。謎のタイトルから始まりましたが、「倒錯論」ですからこれで良いんです。謎の組み合わせですが、カエルとビール──倒錯していて良いんです。
【倒錯】さかさになること。また、さかさにすること。特に、本能や感情などが、本来のものと正反対の形をとって現れること。
これが僕たちの世界なんだというお話をしていきます。
サイバー空間
スマホ、コンピューター、インターネット──サイバー空間が僕たちの環境を取り巻くようになってから、もう30年になろうとしています。果たしてその間、世界はどう変わったのでしょうか。
誰もが手軽にアクセスでき、気軽に発信ができる。大手メディアに牛耳られ、一方通だった言論空間が解放され、ビジネスも世界規模で展開できる。それまでの権力構造や資本構造を刷新し、自由で平等な新しい世界が創造される──カリフォルニアン・イデオロギーとか、ハクティビズムなどと呼ばれたユートピアが語られたことがかつてありました。
翻って強大過ぎるテクノロジーは、管理社会をもたらすだろう。その情報処理能力と光学システムにより、個人のデータを管理し、カメラによる監視、スクリーンによる洗脳──オーウェルの『1984』やブラッドベリの『華氏451』のようなディストピアが到来するかもしれないと懸念されたこともありました。
果たしてその実情はどうだったのでしょうか。
半分ユートピア、半分ディストピア、両方の側面が垣間見られる社会になったような気がします。しかし、しかしスロベニアの哲学者スラヴォイ・ジジェクはその両者を「肝心なところをはずしている」「強すぎるか、弱すぎるかである」と批判。倒錯した世界になったのだとさらに深い分析をしています。
倒錯への回路
その理論は非常に細緻に至り、難解。「大文字の他者の非存在」などと表現されているのですが、サイバー空間という虚構の世界でふるまう僕たちは、それがニセモノだとわかっていて、それを受け入れている。あまつさえ信頼までしているというような論調になります。
これまでの焚き火哲学、特にスレイビッシュ・ミーム論で論じてきた通り、近代から現代の哲学は、僕たち人間に「自ら奴隷になろうとする性質」が備わっていると指摘しています。自分を犠牲にして他者に奉仕しようとする、さらには大きなもの巻かれようとする性質。そのおかげで原始の時代から集団的動物として、社会を機能させ、発展させることができたのですが、ここにきてその舞台はサイバー空間へと移りました。
ニセモノの世界で奴隷になる──するとその主人(あるじ)もニセモノにならざるを得ません。大げさに言えば神をでっち上げているような世界です。ジジェクはそれを「エージェント」と呼んでいますが、マゾヒスティックで倒錯した隷従を、自らが自らに課しているのです。
しかもそれが、昨今話題になっているサイバーカスケード、エコーチェンバー、フィルターバブルなどといった効果によって倍増、暴走するとなると、その倒錯には歯止めがかけられません。それがジジェクが言うところの「幻想の横断」です。
ポピュリズムとか、国民の分断とか、陰謀論などなど──実害まで報告されるようになった現代は、やはりユートピアからはほど遠いし、かといって管理社会的なディストピアとも様相の違う、予想外の世界になった気がします。
なんだか歪んで、捻じ曲がった、ちぐはぐな世界──といったところが僕の所感です。皆さんはいかがでしょうか。
カエルとビール
サイバー空間がもたらしたこの倒錯した世界観を、ジジェクはイギリスで流れていたビールのCMの例を援用して、見事に説明しています。以下、引用します。
その第一場は、有名なおとぎ話である。少女が川沿いを歩いていると蛙に出会う。それを優しく膝の上に取り上げ、キスをする。すると、もちろん、醜い蛙が奇跡のように美しい青年に変わる。しかし話はそこで終わらない。青年が好色そうな目つきで少女を見やり、少女を抱き寄せ、キスをする──すると少女はびんビールになり、青年はそれを誇らしげに手にする。
僕はもちろん見たことありませんが、こんなプロットのCMだったそうです。カエルが王子様になる──おとぎばなしの古典ですね。ディズニーアニメの『プリンセスと魔法のキス』もそんなお話でしたっけ。ジジェクの解説は続きます。
少女は実は青年である蛙という幻想を抱き、青年は実はびんビールである少女という幻想を抱く。現代の美術や文学がこれに対置するのは客観的な現実ではなく、根底にある、二人の主体が決して引き受けることのできない「客観的に言って主観的な」幻想、「男と女」あるいは「理想の夫婦」とでも題される、びんビールを抱いた蛙というマグリット風の絵のようなものである。
最後に残るのは「ビールを持ったカエル」です──このミスマッチこそが、現代の倒錯したサイバー空間で起きていることなんですね。
焚き火とビール
キャンプなどのアウトドアアクティビティにおいて、ネットやスマホなどを断ち切ることを「デジタルデトックス」と呼んだりします。デトックス──逆を言えば日常の僕らは「カエルとビール」の幻想に毒されていると言っても良いでしょう。
お互いが客観的だと思われる幻想を立ち上げて、それに隷従するような気遣いをし合う。実は誰も望んでないのに、望まれているだろうと誤解されたミスマッチで、世界が溢れていく。次第にそれが自分の望んでいたものだと錯覚するようになり、さらにそれを望もうとする。ユートピアともディストピアとも言えない倒錯した生活を人は送るようになる。
コンプラとか、ポリコレとかに過敏な世相も、その現れかもしれませんね。
人生はもっとシンプルで良いはずです。焚き火とビール。世界はもっと単純な喜びで溢れています。ビールはビールで良いし、焚き火は焚き火で良い。冬は寒くて良いし、夏は暑くて良いんです(近年は暑すぎますけどね)。
そんな事を気付かせてくれるのも哲学のおかげ。あるいは焚き火のおかげかもしれません。さて、焚き火で一杯ひっかけて、眠りにつくことにしましょうか──。