独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
焚き火と自由
焚き火はカオスである。故にそこに自由が見い出せるのだ。これが本稿「自由論」が辿り着きつつある結論です。「人は自由を求めて焚き火をする」という命題に始まり、ここまで考察を巡らし、どうにかそれに肯定的な見解を出せそうで、ほっとしています。
読者の中には焚き火に否定的な負い目を感じている方もいらっしゃるかもしれません。特に薪を燃やすことによるCO2排出。森林伐採などの環境問題における自然への負荷について。
哲学から離れて、科学的な余談になりますが、少し調べると「大した影響」はないと分析されることが多いようです。詳しくは当「なちゅガール」の特集記事にまとめられていますので、興味のある方はそちらもお読みください。そしてあらためて焚き火を見つめ直してみましょう。
環境的には問題がないとしても、心理的にはネガティブなイメージも残ります。大げさには、焚き火は一種の「破壊」であるとも言えます。生きている木を伐採し、灰になるまで燃やし尽くす。美しく燃え上がる炎を眺めるのは、どこか享楽的にも思えますし、後ろめたい気持ちも拭えなかったりします。
本稿ではやはりこの心理面、哲学的なアプローチで、焚き火と自由への論考を続けたいと思います。
人間の多様性
さて、それではこの倒錯した世界観を今いちど整理してみましょう。
僕たちが自由だと思いがちな「自然界(ピュシス)」は、実は不自由。動物たちが暮らす自然の世界は、虫から鳥、植物までもがすべて決められた自然の法則に沿って動いています。すべてが秩序立ち、調和のとれた生態系は、逆に自然の摂理に従わざるを得ない不自由な世界です。
反面、僕たち人間は、大脳を発達させたおかげで自由意志を獲得しているとされています。この自由意志こそがクセモノで、本能だけに従っている動物とは異なる、大きくブレのある行動を生み出します。弱者を守ったり、他の動物を助けたりすることもありますが、必要以上に狩りをしたり、大量虐殺に陥ってしまうことも多くあります。他の動物に比べ、行動の多様性においてブレています。
つまり大きく善いこともすれば、大きく悪いこともする。昔から性善説と性悪説で意見が分かれてきたのも、一重に多様性のため。人間には生来どちらのかの資質が備わっていた訳ではなく、どちらにも振り切れてしまう自由意志が備わっていたのです。
しかし、ダーウィンの自然淘汰説にならえば、多様性こそ最強です。DNAを変異させ、多様な生態を獲得した種族の方が、環境の変化に生き残りやすくなります。そこに自由意志が加わり、身体的特徴だけではなく行動様式にまで多様性を持たせたからこそ、人類はこれだけの繁栄を遂げたのでしょう。
「ノモス」の出現
そしてこの多様性をネガティブに捉えれば混沌──「カオス」に他ならなくなります。集団の個々が生き延びる可能性を上げるためには多様性こそ有効ですが、人間を「集団をつくる社会的動物」と位置付ければ、多様性は障害にしかなりません。集団に求められるのは混沌でも多様性でもなく、統一性です。
つまりは安定を求めようとすれば多様性を捨てねばならず、変化への適応を求めればカオスを受け入れなくてはならない。この矛盾したジレンマに挟まれているのが人間だと言えるのです。
「カオス(混沌)」に対して「ノモス(秩序)」──掟、慣習、法律などの人為的な制度を指し示すこの用語を、僕が図式化した宇宙(コスモス)全体の世界観に配置すれば、前述の「ピュシス(自然)」「カオス(混沌)」との関係は次のようになります。
まず「自然界(ピュシス)」は、人間とは相入れない世界にあり、いちど大脳を発達させてしまった人間には、もう純粋に認識することもできない存在とされます。禁断の果実を口にし、神により追放された人間は、ピュシスに還ることはできません。
そして人は獲得してしまった「カオス」を、国家や宗教や法律──つまり「ノモス」によって押さえ込んでいるということになります。
性善説と性悪説
この構図はちょうど、トマス・ホッブズと同じですね。人は本質的に放っておくと奪い合い殺し合い、ロクな事をしないカオスな存在だから、リバイアサンという巨大権力で縛らなくてはならない──性悪説に基づく人間観です。
一方その半世紀後、性善説を説いたジョン・ロックは、人は放っておいても協力し合い、集団をつくるようになると分析しました。ノモスの形成ですね。自らを矯正する傾向までをも含め、彼はそれを人間の本質と捉えたわけです。
どちらも間違っているとは言いませんが、不十分。まだ古い考え方です。
その一歩先を行っていたのが、それからまた半世紀後の思想家、ジャン=ジャック・ルソー。彼は人は生まれながらに善良であるが、都市の社会制度、貨幣経済などに染まることで悪くなるものだと説きました。謂わばノモスの毒までをも見抜いていた訳です。
集団の善悪
秩序と安定をもたらすための「ノモス」──これが常に善き物だとは限りません。国家にも善い国と悪い国があります。いえ、そのどちらの側面も併せ持っていることが普通です。それは例えばキリスト教も同じ。多くの人を救済してもきましたが、多くの戦争や虐殺、迫害の要因にもなってきました。善悪どちらにも振れるのです。
国家も宗教もただ秩序と安定、つまり集団的動物としての「まとまり」を担保しているに過ぎません。その「まとまり」全体が善にも悪にも染まるのです。人にはその集団に帰属する属性が備わっているので、集団規模の善行や悪行に至るだけに過ぎません。
そしてそれは、現代の都市に住む僕たちにとっても同じこと。大きな物語が過去のものとなり、市場原理やインターネットがその集団を統括しているとしても、それが有史以来の「ノモス」であることに変わりありません。
だからこそ、カオスたる炎の中に自由を見い出せるのです。