独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
焚き火を哲学する
第二部「自由論」の最終章です
火は一種の破壊である。炎はあらゆるものを焼き尽くし、灰にするカオスである。しかしまた、その炎の中から新しいモノが作り出される。キャンプ時の調理に限らず、人は火を使うようになって文明を躍進させてきました。土を焼き、鉄を打ち、器や農具や武器を製造してきました。
破壊と創造──と言うと定番の物言いにはなりますが、僕たちキャンパーにとっての「焚き火」は、そのような実用面での創造と破壊だけではなく、精神面での創造と破壊をも象徴しているように思えます。
安定した社会、決められた規則──僕たちが日常を暮らす秩序立った「ノモス」の世界から反動としての焚き火。僕たちが焚き火の中に自由を求めているとするならば、そこにはカオス的な自由を求めながらも、ノモス的な安定をも必要とする人間像が浮かび上がります。
二律背反というか、両義的で矛盾した人間像です。
デジタル化するノモス
しかし現代は、数字や記号やデータが暴走する情報過多な時代でもあります。本稿第二部の前半で警鐘を鳴らしたポストモダンの世界です。数字や記号は物事を相対化し、順序付けたり、秩序付けたり──ノモス化するには便利なツールですが、過度に頼ると、杓子定規で味気ない世の中が到来してしまいます。
説明するまでもなく、デジタルな情報は、現実を抽象的に記号化したものです。実物ではありません。インスタの画像も、You Tubeの動画も、メタバースの空間も、現実を模した「0」と「1」による2進法のデジタル信号に過ぎません。もっとも単純化された記号が、すなわち数字です。
数字は人さえも抽象化します。学生の頃は偏差値で、大人になってからは年収で、まるで数字が全てを決めるかのように、数字で人を判断する趨勢は昭和の昔からありました。
それに加えて昨今は、フォロワー数や再生回数、趣味や遊びの分野にまで数字が侵食。ゲームもファミコンやゲーセンの時代とは違い、ネットを介した世界レベルのランキングへと競争が激化。スマホの課金ゲームともなると、金銭面でも、精神面でも、生活面でも、人間を破壊しかねない勢いです。
本業でも数字、遊びでも数字。カオスが求められるのも道理です。
パルマコンなカオス
混沌、混乱、無秩序──本来は宇宙が始まる以前の状態を指すカオスです。その意味からしてもネガティブなイメージがつきまとっていました。しかし最近は若者が「まじヤバ」と口にするのと同様に「まじカオス」とも発するようになり、肯定的に使われる傾向も出始めました。
本稿では秩序、安定を意味する「ノモス」に対峙するものとして、人が本来持つ自由意志の表れとして「カオス」を扱ってきました。動物のように本能に決められた行動をするだけ(ピュシス)ではなく、また社会的動物としてルールに従うだけ(ノモス)でもなく、自由意志によって善いことも悪いこともする、選択の自由がある──自由の象徴としてカオスを扱ってきました。
人間だけが自由意志を獲得し、人間だけが火を使うようになった事実には、何かの符合を感じざるを得ません。
また火が創造にも破壊にも使われ、自由意志が善にも悪にも振れることも、両面的な共通性を見い出すことができます。
哲学では時に、このような両義性を「パルマコン」と呼びます。原義は「薬」を意味し、また「毒」をも意味するギリシャ語にあるのですが、様々な時代の哲学者により、いろいろな概念で使われます。人間にとっては、自由意志こそが善にも悪にも振れる諸刃の剣。僕たちキャンパーにとっては、焚き火こそが創造も破壊をももたらすパルマコンなのではないでしょうか。
中庸の徳
ここで再度、アリストテレスの登場です。第一部の最後に登場した「フロネシス(第一部-9章参照)」。この「賢慮」とも「実践知」とも訳される道徳は、その一つに「中庸の徳」を掲げています。どちらか一方に振り切ってはいけない、ほどほどの中間あたりが良いですよ──という教えです。
例えばお金に関しては、極端に「ケチ」でもいけないし、極端に「放蕩」でもいけない。その中間の「寛大さ」が道徳的である。また、気質に関しては極端に「臆病」でもいけないし、極端に「無謀」でもいけない。ほどほどの「勇気」こそが求められると説明されます。
ここまで論じてきた「ノモス」と「カオス」、「秩序」と「混沌」、「自由」と「規制」、「破壊」と「創造」に関しても、どちらの両極端でもいけない、中庸が求められるべきでしょう。
焚き火そのものも、あまりにも自由に、何の規制もなく、注意も払われずに行われれば山火事になりかねません。逆にあまりにも慎重に、安全性や環境への配慮を優先し過ぎるなら、そもそもやらない方が良い──「焚き火禁止」となってしまいます。何事もバランスが大事ってことですね。
流儀としての焚き火
以上。第二部の総括として、焚き火そのものが自由の象徴ではあるのですが、焚き火の仕方までもが無制限に自由ではないとも結論付けられるのではないかと思います。
中庸の徳は時代や国によってそのバランスを異にすると言われますが、まさかガソリンをぶっかけるなんて着火法は、どの時代もアウトでしょう。逆に、原始人のように「きりもみ式」しか使わないのもどうかと思います。
ライターやマッチで着火、着火材や麻縄を使う、ファイヤースターターにこだわってみる──このあたりが常識的な焚き火の範疇なのではないでしょうか。
いえ、お気に入りの焚き火シートと焚き火台。厳選した薪や炭。丁寧にバトニングしてフェザースティックを削り、ファイヤーブラスターで火を育てる──そうなると最高の夜空とロケーションも欲しくなり、季節や時間も気になりますね。カオスたる焚き火にも、ノモスたる流儀にこだわるのが今流の焚き火なのかもしれません。それぞれのキャンパーが、それぞれの流儀で楽しむ中に美学があり、中庸があって良いのだと思います。
本連載は次回、第三部に突入し続きます。さらに焚き火にまつわる考察を、世界について、社会について、人間について巡らしていく予定です。焚き火にとってはbestなシーズンが到来しましたので、暖かい火にあたりながらお待ちください。