独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
ポトラッチ
「ポトラッチ」──アメリカ、カナダの先住民族によって行われていた贈与・破壊の儀式。文化人類学者のフランツ・ボアズによって紹介されました。その形態は部族によって様々ですが、食べ物や物品を大盤振る舞いし、酒池肉林、放蕩の限りを尽くしたり、破壊してしまうこともある風習です。
前回の『SM論②ポトラッチキャンプ』では、こういった祭事や儀式の果たしてきた役割をご説明しました。つまり勤労と清貧とで過ごす「日常」に対峙して、特別で「非日常」となるハレの日は、一種の息抜き、ガス抜きとして機能してきたのだというお話です。
それはちょうど、「キャンプ」という非日常とも重なるところがあります。祭事や儀式の存在感が薄まりつつある現代社会。多忙で閉塞的な毎日に追われる僕たち現代人にとっては、焚き火を起こしてちょっと贅沢な肉を焼いたり、お酒を嗜んだりすることがささやかなるポトラッチ──ガス抜きであると言っても良いかもしれません。
たとえ時代が変わったとしても、人間の本質って大して変わらないものです。儀式がキャンプに変わっただけで、人の営みは同じように続いているにすぎない──それを教えてくれる学問の一つが「文化人類学」になります。
文化人類学
名前を聞いた事はあっても、実際に大学の教養課程で履修したことがあっても、いまいちピンと来ないのがこの「文化人類学」という学問ですね。ぶっちゃけひと言で言っちゃえば、「文化人類学とはタイムマシンである」──と僕は考えています。
もちろん人文社会科学、歴史や地理の一部門であると言っても間違いはないのですが、この学問は少し一線を画していて、20世紀の哲学の発展に大いに貢献することになりました。──というか、今に名を残す高名な哲学者の多くが、もともとは文化人類学者だったりします。中世や近代でもその時代々によって、哲学者を輩出する学問は数学や科学などに偏ったりしたものなのです。
文化人類学の場合は、「人はそもそも何であるか?」、「社会とはどのように形成されたのか?」といった哲学的な命題に大きな光を投げかけることになりました。はるか昔、原始時代の人間の暮らし、社会の始まりがどうだったのかに説明に貢献したのです。
──とは言ってもタイムマシンが実在する訳ではありませんから、はるか太古の昔まで時間旅行をする訳にもいきません。代わりに文化人類学者たちは船に乗り、世界の隅々に進出。そこで部族の人たちと暮らしを共にして、その様式を研究する「フィールドワーク」と呼ばれる活動に取り組んだのでした。
つまり、原始時代にタイムリープをする訳には行かないので、逆に今でも原始的な生活を営んでいる人々を観察し、その成果を母国(西洋社会)へと持ち帰ったのです。
クラ交換
その様々な成果の中でも、哲学界で特に有名になった儀式に「クラ交換」というものがあります。1922年に英のブロニスワフ・マリノフスキーという文化人類学者によって紹介された太平洋、ミクネシアの島々に伝わる風習です。
「クラ(kula)」というと日本語の「倉(蔵)」を想起させますが、関係はありません。物そのものを指す言葉ではなく、その儀式(交換、交易)を指す言葉です。そして交換といっても、原始人たちがやってそうな物々交換のようなものでもありません。純粋に儀式、祭事としての交換です。
しかしこれがもう「交換、交易」と言うには我々の想像をはるかに絶するもので、100km、数100km離れた島々の間を命がけで航海しながら交換、交易していくのです。いくつもの島々の間をぐるっと左回りに、右回りに。一周するのに数年から10数年かかることもあって、命を落とす者まで続出するそうです。
ここで一気に卑近な話になってしまい申し訳ないのですが、同様に伊豆七島に渡った縄文人たちのことを考えると僕はいつも気が遠くなってしまいます。大島、利島、新島、式根島──文字にしてしまえば大したことのないように感じられますが、相当危険な冒険ですよ。貴方なら挑戦してみたいと思いますか? フェリーもボートもない縄文時代に。
いちど資料館のようなところで彼らが使っていたという「丸木舟」を目にしたことがあります。「こんなんでこの大海を渡ったの〜っ?」というくらいお粗末な舟。こちらから遠くに霞む大島のシルエットを眺める度にその舟が思い出されるのです。大波に飲まれてしまう危険を回避できたとしても、絶対あそこまで漕ぎ着ける体力がありません。
それでも大島なんて離れていても100km弱。ミクロネシアの人たちはそれ以上の距離を、丸木舟同様のカヌーで渡っていたというのです。
贈与の一撃
ところがそのクラ交換における肝心の物品は、どこにでもある貝で作った腕輪と首輪だったというのがこの話のポイントです。男たちが命を懸けて届けるほどの価値もない物だったと紹介されています。
ポトラッチとクラ交換。どちらにしても、僕たちの価値観を超越しています。どうしてそんな事をしているのか意味が分からない風習です。特に放蕩の果てに破壊したり、たかだか貝のために命を落としたりするまでになると、未開人だからと片付けるしかない、理解不能な儀式にしか思えません。
しかしフィールドワークからのこういった知見を『贈与論』として考察したマルセル・モースという、また別の文化人類学者がいます。贈与と交換を基軸と捉えた彼の社会観は、人と社会の本質を見事なまでに説明していると僕は思います。
それは価値があるから交換するのではなく、意味があるから催すのでもない。一種、主客転倒した現象。祭事や儀式が自己目的化した「非日常」のあり方を説明しています。
受動的なキャンプ
僕たちは贈与や交換の場に置かれた時、意味がなくても、その気がなくても、そうせざるを得なくなる。負い目や義務感に追われて、命までをも賭してしまう。本来はガス抜きだったはずの「非日常」に強制力が働く。しかしこの逆転現象によって社会は活力を与えられ、存続していくのだとモースは説きます。
ちょっとややこしくなってきたので、今一度まとめてみましょう。
日々繰り返すルーティーンの生活──「日常」は、意味や目的に適った行動様式、ルールや規則、合理性や整合性が敷き詰められた無味乾燥な毎日に過ぎません。
その一方で、たまに巡ってくる祭事や儀式──「非日常」は、そんな意味や目的から解放された、息抜きや発散のための自由な解放の場となるはずです。
しかしそんな祭事や儀式も、回数を重ねていくうちに強制力が働いて、主客転倒した義務的な場となってしまう。
これって、ベテランキャンパーさんなら、1度や2度は経験したことのある現象なのではないでしょうか。もともとは愉しみで始めたキャンブが義務になってしまったり──、仲間と盛り上がっている最中に無理している自分に気付いてしまったり──。
実際、そんな逆転現象に苛まれている方の話もよく聞きます。どんなジャンルの趣味や遊びでも起こりがちなことですよね。次回はそのメカニズムをさらに詳細に解明していく予定です。