独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。
差異を消費する
メビウスの輪──クラインの壷──同じところを♪グルグル廻って〜、グルグル廻って〜という前回のお話の流れからすると今回はそう、永劫回帰。いよいよニーチェの登場となります。
いつも以上に訳の分からない導入ですみません。
スレイビッシュ・ミーム(隷属化する情報子)論と題して、前回は加速していく資本主義社会を批判しました。次々と新しい商品が生み出され、その差異が消費されていく資本主義社会。僕たちはそれに隷属しているのだと。
新しい流行、新奇なアイディア、他とは差別化された記号がコマーシャリズムに乗り、僕たちの購買欲を刺激します。「ほかの人とはちょっと違うモノを持ちたい」という欲望ですね。
キャンプでも、昔のキャンプブームの頃はみ〜んなColemanでした。第二次キャンプブームというのかな? 諸説あって年代もはっきりしませんが、キャンプ場に行くと隣のサイトも、そのまた隣のサイトもぜ〜んぶコールマンのドームテント。トイレから戻って来た時に、自分のサイトがどこか分からなくなっちゃうほど、コールマンのファミリー用ドームテントでキャンプ場が埋め尽くされていました。
そんな中、OGAWAやSnowPeakのテントを張っていると、それだけで羨望の眼差しを向けられたものです。今では考えられませんね。でもそのちょっとの差が大きかったのです。
「実存主義」
それから次々と新しい商品が生み出され、テントの色や形もさまざまになり、現在のようなキャンプシーンが訪れた訳ですが、この差異の消費が次々と繰り返されていくサイクルこそが、自転車操業のような無間地獄をもたらしたとも言えます。働いてお金を稼ぎ、消費を繰り返していく──滑車を廻るハムスターのようなライフスタイル。
ちょっとずつの差異が生活を向上させている。そんな風に僕たちを錯覚させるからでしょうか。その差異は無限に続いてしまいます。とどまる所を知りません。
でもちょっと立ち止まって、その根源、そもそもの事を考えてみませんか。その差異が積み重なっていく大本(おおもと)は何だったのか。物事の根源を、本質を、実存を考えてみませんか。──なんて無理やり哲学用語を織り交ぜ始めましたが、その「実存」を考える「実存主義」の大家がフリードリッヒ・ニーチェになります。
積み重なった様々なものを取っ払ってこそ実存が見えてくる。第二部からさんざん語ってきた「構造主義」に対峙する、近代(現代?)哲学の2大潮流のうちのひとつになります。
現実存在
あまりにも偉大な哲学者なので、詳しくない人でもその名前ぐらいは知っているニーチェ。冒頭でも触れた「永劫回帰」の他にも、「ルサンチマン」や「ニヒリズム」、「神は死んだ」などの言葉でも有名ですが、僕にとってはあらゆる既成価値をぶっ壊してくれたPUNKな哲学者だったりします。
彼はあらゆる価値観や意味を疑い、とっ払っていきます。国家や伝統や宗教的な価値観。善悪などの道徳的な倫理観。果ては色や形などの僕たちの認識にさえ疑いの目を向けます。
「そんなのどっかの誰かが勝手に決めたもんじゃないの? 」「キリスト教やユダヤ教だって、迫害された民族が勝手に始めたもんじゃない?」「倫理や道徳って、善悪が転倒しちゃっていることない?」「この色が「赤」と呼ばれるのだって、そういうルールがあるからだけじゃん」
実はすべての物に付随している意味や価値、その名称や認識までもが人間が勝手に付け加えた付属品に過ぎない。全てをとっ払ってしまえば、残るのは現実存在だけ。「現実存在」──略して「実存」、実存主義哲学となるのです。
背後世界
ニーチェはその余分な付随物、意味や価値や道徳観などを「背後世界」と名付けて唾棄しました。物そのものである実存とは別の、思い込みや脅迫観念に過ぎない。僕たちを隷属化させる邪悪な神、情報子(ミーム)であるといっても良いと思います。
今の日本で言うならば「受験勉強をして大学に行かなくてはならない」「良い会社に就職してお金を稼がなくてはならない」がその代表になりますかね。
これは言うなればイデアの否定です。はるか昔、ギリシャ時代のプラトンが提唱したイデア。本項では第21章の『SM論①洞窟の外へ』で、プラトンが用いた洞窟の喩えを紹介しました。お暇のある方はそちらを読み直して頂きたいのですが、面倒くさい人もいらっしゃるでしょうから、引用もしておきます。
僕たちは生まれた時から、その洞窟の壁を世界のすべてだと思い込んで生きています。壁に投影されたものを実体だと思い込んでいるのです。それ以外を見るとことはありません。影を映し出しているその光源も、洞窟の外にある世界も、さらに明るい光を放つ太陽も──。
──洞窟の壁に映し出された背後の世界を絶対的なものだと思い込み、そのせいで悩んだり苦しんだり、憎しみ合ったり戦争したり、メンタルや体までやられてしまったりするのも、すべてはこの背後世界の幻想によるものなのです。
大いなる正午へ
ニーチェの書物は代表作「ツァラトストラはかく語りき」をはじめとして聖書のような文体で書かれ、比喩的な表現が多く、難解で知られています。
僕たちを隷従させるこの「背後世界」も、上記のような洞窟の喩えによって説明されることが多く、その洞窟の外の世界は「大いなる正午」と呼ばれます。正午──太陽が一番高く、頭上のてっぺんに来る時間帯、物の影が一番短く、小さくなる瞬間ですね。その様子を『SM論①洞窟の外へ』から、いま一度引用してみましょう。
プラトンの寓話では、洞窟の外に出た人々は、本物の太陽の眩しさに目が眩み──。自分の信じていた世界がまやかしだったことに混乱したり、逆上したり──。逆に外界の明るさに慣れると元の洞窟の壁に映る影が暗過ぎて見えなくなり──。洞窟に囚われている他の人にその真実を伝えようとするも拒絶される──。
プラトンの師、ソクラテスもまさにそんな役割を担い、真実を伝えようとして刑に処されたのだと解説されることもあります。でも、哲学そのものの役割も、多かれ少なかれ同じところにあるのだと考えます。
ぜひこの「洞窟の喩え」を心の片隅にとどめおいて下さい。本稿もこの第三部で焚き火から離れ、明るく眩しい太陽の元に躍り出ていく道を模索していくことになります。
まだまだ道半ば──といったところですが、僕たちが目指すのもこの「大いなる正午」なのかもしれません。