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コラム
焚き火哲学*40
『SM論⑳隷属化する情報子』

独り火に向かい、その暖かさと燻煙、薪の爆ぜる音を五官で感じる時、人は煩瑣な日常から解放される。炎を見つめながら物思い、物憂う中、人は誰もが哲学者となる。本連載は、そんな孤独な炎を共有し、誌上で語り合わんとする試みである。

― Sgt.キャンプ

焚き火に合うキャンプ飯と言えば?

「肉」でしょう。それも分厚くワイルドなステーキ肉。

炭火で焼いても良し。鉄板で焼いても良し。サバイバルナイフにぶっ刺して、焚き火の炎で直接炙ったりしたら、気分はもう西部時代の開拓者。ちょっとしたフロンティアスピリッツに浸ることもできます。

新大陸の征服者。人類はグレートジャーニーの果てに、世界の隅々にまで棲息地を広げ、世界の覇者となりました。肉食動物の上にまで君臨する、生き物界の覇者になった──とまで言っても良いでしょう。

しかしそれでも人間は奴隷なのです。




隷属化する情報子

人は自ら「何か」に隷属化する。「何か」を信じ、「何か」に従い、自らすすんで能動的な奴隷となる。学校や受験制度に従順な奴隷。会社や組織に滅私奉公する奴隷。地域の伝統や社会のルールに盲従する奴隷──その「何か」は無数にあります。何であっても良いのかもしれません。

とにかく人は何かを信じ、何かに依拠し、何かに仮託しなければ生きていけない。か弱き存在なのだとも言えるでしょう。具体的に言えば、その最たるものは国家や宗教。様々な組織の中でも、国や宗教ほど多くの人を巻き込み、広い範囲、長い時間に渡ってその支配を及ぼすものはありません。ある一つのモノを除いては。

言葉です。

前回は精神科学者ラカンのオイディプスの喩え、「去勢」や「象徴界」という概念を取り上げて、人は成長段階において言葉を獲得するたびに去勢され、自由を失っていく。言葉をしゃべるようになるにつれて、記号・シンボルにより構造化された象徴界に突入するのだ──という学説を紹介しました。

ですから言葉、ミーム(情報子)なのです。国家や宗教を超えて、長く人類を支配し続ける言葉。僕たちの脳内に侵入し、僕たちをコントロールする言葉、情報子。その力に自覚的にならなければ、この奴隷制度から解放され、本当の自由をつかめるようにはならないかもしれません。




言葉がつくる世界

極端で、大げさで、物騒なことを言えば、有史以来、世界で最も多くの人間を殺してきたのも言葉です。その中でも最大のミームと言えば「聖書」と「コーラン」だと言えるでしょう。キリスト教とイスラム教──実に多くの戦争の火種となってきましたし、地域によっては、まだその戦火がおさまっていないところもあります。

神の言葉、神話、神託、予言、伝承──経典ともなると多くの言葉がタペストリーを織りなし、ひとつの世界、そしてひとつの宇宙を創り上げています。そして人はその中で生き、死んでいきます。愛し、家族をつくることもあれば、諍い、殺し合うこともあります。

新約聖書は「はじめに言葉ありき」の一節から始まります(ヨハネの福音書1章1節)。言葉こそが世界を作っているのです。




大きな物語の崩壊

そんな言葉が最大の惨事をもたらしたのは、言うまでもなく第一次、第二次、2つの世界大戦時でしょう。

ヨーロッパが小国家に分かれて領土争いに明け暮れていた中世よりも、日本が大名たちにより国取り合戦を繰り広げていた戦国時代よりも、大規模な戦争に発展したのが2つの世界大戦です。複数の国が参戦し、大量の人数が戦争に投じられ、科学による兵器の開発も手伝って、何千万人もの人が犠牲になりました。

近代を迎え、理性的になったはずの人間が、何故こんな大きな過ちを犯してしまったのか。この過ちは思想界にも大きな衝撃を与えました。哲学界では近代合理主義が否定され、実存主義的な思想が勃興しました。

フランスの哲学者、リオタールはその元となった宗教や国家を「大きな物語」と呼んでいます。人々が信じ、命まで捧げてしまう組織の正体は「物語り」──宗教をまとめ上げ、国家をまとめ上げるのも物語、つまり言葉です。

二つの世界大戦の場合、それは国家をも超えた思想になりました。人は領土や資源を奪い合って戦ったのではありません。物語のために戦ったのです。この連載に合わせて言えばミーム、情報子のために戦ったのです。否、戦わされたのです。




倒錯の世界へ

ここまで全20章。長きにわたって語ってきましたSM論、スレイビッシュミーム論。この章をもっていったん完結、区切りを見せようと思います。

冒頭で触れた通り、人類を生物の頂点にまで押し上げたのが言葉ならば、人類を破滅させかねないのも言葉。人類と動物を分け隔てるのも言葉。『自由論⑦不自由な自然』で論じた通りピュシス(自然界)とカオス/ノモス(人間界)を分断するのも言葉。去勢され、父の名にひれ伏し、エディプスコンプレックスを抱きながら象徴界に生きる人の諚も、すべて言葉によるものかもしれません。

ラカンの弟子、ラカン派を自称して憚らないスロベニアの哲学者、スラヴォイ・ジジェクは次のように語ります。

「人間が動物を凌駕するのは暴力の能力の点においてであり、それがほかならぬ言葉を使うせいだとすればどうだろう。」

本来なら人に理性をもたらし、知性をもたらすように思える言葉。それが暴力を加速させ、人類を破滅に導く。ジジェクが正しいとするならば、これは一種の倒錯、逆転現象だとも言えます。

今回ひと区切りを迎えましたが、「焚き火哲学」はまだまだ続きます。次章ではこの逆転現象、主客転倒──倒錯する人間のあり方について考察していきたいと思います。これからもご愛読、お願いできればと思います。














Author
Sgt.キャンプ
キャンプ歴35年、市井の思想家。